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右から左に流す日々

ヒトラーがベジタリアンだったとして何なのか?――「100か0」で判断する不毛さについて

 ベジタリアンに対する根強い批判に、「ヒトラーベジタリアンだった」がある。これに対する反論は「いやヒトラーベジタリアンではなかった」や「ベジタリアンではあったかもしれないが、動物倫理を土台にしたベジタリアンではなかった」などが定番なのだが、そもそも「仮にヒトラーが動物倫理を土台にしたベジタリアンだったとして何なのか」が掘り下げられていないのではないか。この問題は、単にべジタリアニズムやヴィーガニズムに対する批判の領域を超え、道徳の完全性を他人に要求しているように思える。

 例えば、ここに株式会社Xがあるとして、T部署に管理職のAさんと新人のBさんと中堅な先輩Cさんが働いているとしよう。AさんはBさんを日ごろから駄目な新人部下だと思い、厳しい表現で𠮟責しているとする。具体的には「お前、何度同じこと教えればわかるんだ!仕事を舐めてるのか!?」「覚える気がないんじゃないのか!!」といった具合だ。BさんはCさんにAさんに対する愚痴をこぼすわけだが、Cさんは「Aさんは根は悪い人じゃないんだよ」と擁護する。このような事例において、ネットではしばしば「本当にいい人なら~」構文でAさんの人格を否定したり批判することが常となっている。具体的には「本当にいい人なら〇〇(パワハラ・嫌がらせ)しない」など。

 

 まずこうした説得的定義は、特にまともな論証を踏まないのであれば基本的に詭弁の一種である。説得的定義とは具体的に次のようなものを指す。

言葉の感じからすると、相手を説得するためだけのその場限りの独自定義と言う風に捉えてしまいそうだが、それだけではなく再定義する単語が持つ肯定的/否定的感情を何かに結び付けようと言う誤謬と言うか、レトリックである。メタ倫理学者のチャールズ・スティーブンソンが提唱した概念。「事ある度に空爆を主張するあの政治家は、とても平和主義者とは言えないよ」「結果的に相手国の譲歩を引き出して大きな紛争を封じ込めているのだから、真の平和主義者と言えると思うよ」と、平和主義者か否かを政治手法ではなくその結果で定め、平和主義と言う肯定的な印象を話題の政治家に結びつけるような論法。記述的意味を再定義して任意の対称に、再定義前の情動的意味を持たせるわけだ。

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 今回は説得的定義について云々したいわけじゃないので、簡単な紹介に留める。もっと本質的な問題として、そもそもここで言う「本当にいい人」とは何なのか。この表現を具に分析してより限定するのであれば、「本当の意味で思いやり深い人」となるのだろう。しかし、そのような人は実在するのだろうか。

 先ほどのX株式会社の例に戻ろう。Aさんは一見するとパワハラ気味の上司にみえる。しかし、実はこのX株式会社自体が極めて体育会系の企業で、Aさんがそのように振舞っているのは企業の歴史的な経路依存に影響を受けているだけだとしたらどうだろうか。つまり、Aさんも同じように指導を受けてきて、それで一人前になれた背景があるかもしれない。そうなると、少なくとも、Aさん一人が異常だとは言えないだろうし、「スパルタ」で教え込むのが愛情だと考えているならば、Aさんが「思いやり深くない」とは到底言えないはずである。Cさんも同じようにしごかれてきたが、厳しくとも熱心に教えてくれるし、仕事で成功をおさめればしっかり褒めてもくれる。そういった部分をみてきたから「根は悪くない」という言葉が出たのかもしれない。また、Aさんは家族思いな一面があり、自分の弟の田圃の手伝いに有給を使っていったり、何かと一生懸命に世話をしてくれる。ちなみに、一つ言っておくならば、Aさんは女性である。

 …多少脚色しているが、これは実際に私が経験した事例である。脚色をしているのは新人のBさんは入社したての私であり、Cさんはある程度仕事を覚えた私を投影している。つまり、これは人間を最初の印象や一面的な部分だけで判断すると、「100か0」の善人/悪人しか出てこないと言いたいわけだ。人間はそうそう単純な存在ではないし、ありのままに評価しようとするなら善い部分も悪い部分も出てくるのは当然である。なぜなら、人間は合理性も不合理性も兼ね備えた可謬的存在だからである。

 同じことは犯罪者にすら言える。岡本茂樹の著した以下の書籍は、人間を善人か悪人かで区別することが如何に不毛なのかを物語っている。

 

 

 

 私自身、怒りに駆られて一面的に人を「屑」と詰ってきた過去があるので、反省しなければならないなと思ったが、人間には当然に多面性と複雑性がある。ある環境や状況・場面においては「思いやり深い」ということは十分にあり得る話であり、逆に過酷な環境下においては、「思いやり深い」とされていた人が「屑」に豹変する場合が往々にして発生するわけだ。

 

 「ヒトラーベジタリアンだ」という批判には、「こんなに極悪な人間がベジタリアニズムを支持してたぞ!」といった属人主義的詭弁が含意されている。もちろん、これには命題として興味深い点は何一つとして存在しない。リバタリアンのR.ノージックマハトマ・ガンジーなど、ベジタリアニズムの支持者でナチズムに反する人間はいくらでも存在するからである。この問題の本質は、そのような些末なところにあるのではない。そもそも、仮に動物倫理的理由でヒトラーベジタリアンだったとして、それを悪だと判定する根拠は何か、である。これは単に、ナチズムの印象で芋づる式で引きずって悪だと判定している。つまり「こんな悪いやつが支持してるなら、これも悪いことに違いない」という悪しき「100か0」判断である。これを言い出す人間は、どんな人間も完全な善にも悪にもなることができないという自明の理を忘却しているとしか言いようがない。「いや、動物に優しくすることは悪いことなんだ」と倒錯した倫理観を主張しているなら、話は別だが。

 

 最後にしばしば私が参考にしているデビット・ライス氏の道徳的動物日記からハーツォグの重要な言葉を引用してこの話は終わりにしたい。

 

ナチスの動物保護は、本来なら悪人である人たちでも動物に対して良いことをする、という一例を示している。このようなパターンの行動は稀であると私は思う。しかし、その逆…本来なら善人である人たちが動物をひどく取り扱うことは、ありふれている。例えば、アメリカでは年に1億5000万匹以上もの動物がレジャー目的のハンターによって傷つけられたり殺されたりしている。同様に、幼年期の動物虐待の大半は、後には正常な大人に育つ子供によって行われている(学校での銃乱射犯やシリアル・キラーの大半は子供時代には動物虐待をしていた、という考えは普及しているが、迷信である)。さらに、アメリカでは年に100億の動物が屠殺されている。哲学者のトム・リーガンが「フォークの専政」と呼ぶ事態である。

davitrice.hatenadiary.jp

 

眞子さんの主体性

 ラジオでも話した内容だが、最近の眞子さん&小室問題について簡単に触れておきたい。

 私の立場はこうだ。小室は人間としても大いに問題のある人間であるように思えるし、最近に俄かに巷を騒がしている職務経歴書の偽造問題が真だとするならば、この男との結婚は恐らく失敗するものだと思う。小さな嘘をつくのは誰にでもあり得るが、人間の根幹的な部分で嘘をつくのは人間として信用できないだろう。

 

 ただし、私はそれでも眞子さんの結婚について反対しない。それは、眞子さんの主体性を否定している押し付けがましい価値観にウンザリしているからだ。皇族も一人の人間である。神ではあり得ないし、失敗を犯す自由を持つ。彼女が一人の人間として成長するためには、あらゆる経験が必要であり、それは失敗を犯す経験も含むものだ。仮に今回の結婚が失敗するとしても、それは彼女を大きく成長させるものであり、その経験を奪う権利こそ誰にもない。

 

 この件に関連して結婚を声高に主張している人間は、誰しもが眞子さんの主体性を重んじていない。非常に軽蔑すべき存在である。そもそも個人の結婚に対して文句をつけること自体が大きなお世話に違いないが、なぜ臣民風情が皇族の結婚に意見できるのか、それこそ分を弁えない愚かな行為としか言いようがあるまい。かつて福田恒存象徴天皇制について明治憲法下の君主制よりも残酷な制度だと論じたが、私もこれには同意見だ。皇族は天皇と同一ではないが、それに付随してあらゆる意味で清廉潔白な人格や立ち振る舞いを要求される。国民など多様で、それこそ俗物が溢れかえっているにもかかわらず、模範的な存在としてすべてを制約される。現行の天皇制は、そういった意味においても許容すべきではない制度と結論せざるを得ない。

 

 リバタリアンである私の見解はこうだ。天皇制を非制度化すべきである。そもそも皇族のことは皇族で決めさせるべきだ。我々が家族で身内のことを色々決めていることと同様に、皇族にもその自律権を認めるのが筋である。そのためには、公的な制度としての天皇制をやめ、純然たる宗教組織として立ち還らせるべきである。

ひろゆきが酷いのは今に始まったことじゃないんだが

 どうやらひろゆきがフランス語を誤翻訳して意味不明な言動を行った後、ツイ消し&ブロックをかけて逃亡するという悲惨な事態になっているらしい。

 ひろゆきは以前にも位置エネルギーに関しての言及や、直近ではputainの解釈で狂った言動を繰り返していることでも知られている。

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 しかし、ひろゆきが酷いのは今に始まったことですらないのは、ある程度の被害に遭った人間ならはっきりわかることではなかっただろうか。

 例えば、ヴィーガン関連におけるひろゆきの言動は、しっかり動物倫理を勉強し、栄養学にも通じている人間ならば即座におかしいとわかるものだったはずだ。

 まず、彼はヴィーガンでは必須アミノ酸をとることができないから、子どもの栄養を害するのだといったデマを吹聴しており、実際にそれに同意していた情弱のツイッタラーもたくさんいたはずだ。これは豆と米類の食べ合わせ(大豆などの豆類はメチオニンが少ないが、米類にはそれが多く含まれている等)でアミノ酸スコアを完全にしていくヴィーガンの栄養摂取法を理解しているなら、絶対に間違えるはずのない知識ではなかっただろうか?子どもの栄養を害するリスクを訴えるのであれば、動物性食品を摂ってきた人間ならばある程度は体内に蓄積があるビタミンB12のように、子どもの場合だと意識的に摂取を考えなければならないものをとり上げるものだろう。

 更に、ひろゆきの誤りとして、未だにヴィーガンの理論が「動物愛護」の観点に基づくと思い込んでる点だ。あれだけ他人にリテラシーについてどうのと語ってるくせして、ピーター・シンガーの議論すらも知らないというのは、根本的に頭も(フェアに議論をしようという誠実さもないので)性格も悪いのだろうと思われる。恐らく、当人は功利主義と義務論のそれぞれの立場に基づく議論もろくに知らないのだろうし、知らないからあのような雑語りが可能なのだろう。

 

 結局、ひろゆきという人間はろくな専門知識すらも持たない素人同然の人間であるわけだが、こういう人間をあたかも有識者であるかのように持ち上げ、「論破王」などとアホみたいに持て囃してきた人間全員が(数年前の私も含めて)愚劣だったということではないか。つくづく、数年前の自分は狂っていたというかバカだったなと本気で反省している。

近況報告 

 Twitterで凍結されて数か月が経った。皆さんどうお過ごしだろうか。

 凍結に際して数多くの暴言を吐いたわけだが、私は一ミリとも自分が悪かったとは思っていない。

 それよりも、ドナルド・トランプTwitterで凍結された際に、言論プラットフォームの観点から彼の暴言の自由を擁護してきた自称表現の自由戦士より多くの通報をいただいた。彼らの自己欺瞞と認知の歪みが大きく観測できて満足している。

 

 最近は資格試験の勉強や読書、創作活動に時間をかける方が多いのだが、Twitterでアホみたいにつぶやいていた時期より有意義に生産的で建設的な時間を過ごせていて、凍結されたのはとても良かったことだと思っている。

 そのうち、リバタリアニズム関連の記事を当ブログでまとめていきたいと思っているので、今まで読まれていた方はこれからもよろしくお願いいたします。

 

 なお、最近はポツポツと不定期にラジオ配信をしているので、もし興味があればこちらもよろしくお願いいたします。

 

番組 #ささがに哲学倫理チャンネル #Radiotalk

 

 

 

 

「らしさ」から自由になれば良いのか――ジェンダーフェミニズムに欠如している視点

  

  今回、議論の俎上に載せるのはこの本だ。

  この本はジェンダーフェミニズムを前提とした議論が非常に平易に議論されている。従って、この本を読めばジェンダーフェミニズムの理論的な中核を理解することが可能になるので、批判者にせよ、賛同者にせよ、この本はしっかり読んでおくべきである。

 

 さて、最初に私はこの本の評価すべきところを挙げておきたい。太田は包括的性教育の重要性を挙げており、私はこれについては徹底的に賛同しておきたい。また、セックスは権利でも義務でも儀礼でもないという太田の大筋の主張については、私は全く正しいと思っている。性的同意を強調する筆者の観点にも、「当たり前」としか言いようがないと思っており、この点において太田の議論に反論する部分はない。AVを真似するバカな男に関しては、「そりゃそうやろ」としか思わないし、ああいった作品をファンタジーとして処理できない男については、個人的にかなり軽蔑している。また、セクハラが暴力だとする筆者の見解についても、私は当然に同意すべきことだと思っている。インセルの暴力については個人主義的な見地から一切共感する余地は無いと思っているし、そういった点が問題だとは原則は思っていない。

 問題なのは、太田の性差は社会的なものだ、という古典的な社会構築主義や、素朴な「らしさから自由になればいい」というナイーブな議論である。太田は生物学的に男女の性差は認められないという前提を導出する。例えば、太田は「男の子の生態」に驚きながら、次のように書く(p.6)。

 

男の子の生態と書きましたが、人間の行動や性別(たとえば遺伝子とか脳の構造といったレベルで)決まっているわけではありません

 

  こうした太田の主張は、進化心理学を齧ってる人間ならば誰もが間違った主張だと理解するだろう。太田はボーヴォワールの格言「女は女に生まれるのではない。女になるのだ」を引きながら、男もそうなのだなと言う。

 こうした前提を持ってるからか、太田は有害な男らしさが単に男社会であるが故に起きてる社会構築的な話だと考えている点がある。

 たとえば「男なら出世をめざして当然」というように、社会的な成功に「男として」のポジティブな価値をおくという感覚は、いまの日本社会にもいまだ根強いでしょう。社会的な成功はいいことでしょうが、、では、成功したといえるような状況にならなかったら「男としてダメ」なのでしょうか(p.22)

  そもそも男女の性差については、ミラーの悪しき実験が示したように、一定の生得的な性差が認められたのは有名な話である。

 

 

 また、進化心理学における研究が明らかにしているように、女性には明らかに上昇婚の傾向が示されており、現実の社会においては配偶者を持てない男は「敗北者」として見做されるのが普通である。これは基本的なテキストを読めばはっきり掴めることなので、いちいちここで引用はしないが、進化論的に男性の競争は女性によって誘発されている側面が大きく、現行の性別規範は男女による共同正犯によって生成されたと見做すほうが妥当だということである。

 太田はあたかも男性が自身の性別規範から降りれば幸せになれる、かのような主張をしており、自身の息子たちにもそのような価値観を教育しているらしい。私から言わせれば、これは文化的な去勢としか言いようがないし、本当にそのようなことをすれば性別規範から降りるだけその人間が食い物にされてしまう可能性を強めるだけではないかと思う。他にもこの本では、「やんちゃ」な男の子の性質を社会環境に依存した「有害な男らしさ」として切って捨てているところがあるのだが、そうした「やんちゃ」さを成長させられなかった男は、女性から見た際に、男として魅力が欠如してしまうリスクが高まるだろう。そうした行為について、ジョーダン・ピーターソンは、『生き抜くための12のルール』のルールの中で、「スケボーをしている子どもの邪魔をするな」と強く注意している。危険ややんちゃさを好んでいく男の子の性を親が強く規制した結果、その男の子は異性から一顧だに値しない存在になってしまうリスクを高めてしまうだろう。

 

  以上の理由を踏まえ、私はこの本は結構有害な本だと思っている。この本を読んだ親が自分の子どもを文化的に去勢する危険性があるからだ。確かに、自然は規範を即座に正当化しないかもしれないし、安易な自然主義的な正当化には反対するのだが、自然を無視して打ち立てられる規範は果たして本当に合理的なのか、私には常々疑問である。

 

 なお、私の議論よりも洗練された記事として、以下のものを挙げておく。

 

読書メモ:『ジェンダーの終わり:性とアイデンティティに関する迷信を暴く』(1) - 道徳的動物日記

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

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ズボラベジのすゝめ(2)食事以外の習慣の重要性

  前回、私は次の記事を書いた。今回は、前回の記事では書ききれなかったことについて、もう少し深堀りして書こうと思う。これからヴィーガンになろうと思っている人は参考にしてみてほしい。

votoms13votoms.hatenablog.com

 さて、今回は運動と睡眠の重要性について触れていきたい。ヴィーガンを志向しながらズボラにベジタリアンをやっていくにあたって、運動と睡眠ほど重要なファクターは存在しないからである。

 私自身の体験について語ろう。

 私がまだリデュースタリアンだったときのことだ。ちょうど警備員だった頃の話である。自分の計画は、徐々に肉を食べるのをやめていこうと考えていた。しかし、この頃はとにかく挫折しがちだったのである。これは恐らく、警備員の不規則な生活リズムにかなり影響を受けているだろう。私が勤務していたのは1号警備と呼ばれるもので、(正社員だが)時給は740円の薄給極まるものだったのだが、とにかくこの仕事のキツさは睡眠リズムが乱調になることに他ならない。私が入っていた現場ではA勤とB勤に分かれたバディ制のところで、A勤が20時から24時まで仮眠し、B勤が1時から5時まで仮眠する体制であった。これは日によって勤務が変動するので、自立神経にかなり重大な影響を及ぼすものだったと思われる。勤務明けは下番休となり、普通は一日休養なのだが、シフトにどうしても穴が発生するような場合だと、下番した日の夕方から再び夜勤につくという状態もままあった。

 私は下番してから極力睡眠を摂っていたが、とにかく身体の疲れが全然摂れた気がしないのだ。朝方に寝るということもあり、霧島などの焼酎を身体に流し込んで寝るということも相当に影響していたかもしれない。当時はタバコも吸っていたから、そうした部分も睡眠の質を左右したことは当然に考えられるだろう。だが、睡眠リズムが乱調の場合、とにかく身体がアルコール・ニコチン・高脂肪などの短期的で刹那的な快楽を強く求めることも強調された方が良い。不思議なもので、身体に悪い生活規則は、他に身体に悪い習慣を形成してしまう場合が多いのである。これには多くの生物的なバイアスが関わってることは間違いないが、今回は以下の本を紹介させてもらうに留め、割愛させていただく。

 

  さて、そういうわけで警備員時代はとにかく挫折に挫折を重ねてきた。このとき、間違いなく運動不足も加速化しており、愛犬の散歩以外では殆ど運動しなかったと記憶している。何より、運動する気力が全然沸き起こらなかったのだ。正直、このときはタバコ、酒、高カロリーな食事、運動不足とあらゆる意味で悪習慣が悪習慣を呼び込む最悪の時期だった。

 それからしばらくして、私は警備員を辞めた。まず自分の生活リズムを整えることを目指すことにした。自衛官時代にそうだったように、23時に就寝し、6時に起きるという睡眠リズムを確立してから、禁煙治療薬であるチャンピックスを使って禁煙にも成功した(チャンピックスについては以下にリンクを張っておくので、現在禁煙を考えている喫煙者は使用を検討してみるといいだろう)。それからジムに通い、運動する習慣をつけることにした。ここで重要なのは、まず何よりも習慣づけを目的としていることである。自分でも驚くほど、こうした習慣づけが成功したと思う。

 

www.info.pmda.go.jp

www.private-clinic.jp

 睡眠と運動は非常に重要な両輪だった。この2つをしっかり整えた結果、自立神経がかなり整ったと体感している。警備員時代に常に感じていた日常的な強いイライラもなくなり、前頭葉が正常に機能するようになったと思う。結果、私はそこまで脂っこいものではなくとも満足できるようになってきた。実際に動物性を一切食べずとも、食事に満足感が生まれてきたわけである。もちろん、今でも味が濃いものは欲しくなる場合はあるのだが、それは植物性の旨味だけで十分満足できるようになった。ちなみに、最近の私は筋肥大を目的とした筋トレをしているが、運動後はこざっぱりしたものが食べたくなるのは以外でもあった。これは私だけの経験則なので、他人にも同様に通用するのかは不明だが、運動すると脂っこいものを食べたいという衝動が起きにくくなるのを感じている。

 ここから導ける話は、人間とは極めて習慣に左右される動物だということである。単に食事だけクリーンにしても、他が上手くいってなければ成功するのは難しい。特に睡眠リズムの確立は絶対に重要で、これが整っていなければよほどの意志の強さがないと上手くいかないだろう。

  なお、最後の方に運動と睡眠が与える脳への影響について、とても参考になった2冊を挙げておきたい。これからヴィーガンを目指すにあたって、この2冊はかなり参考になるはずである。

 

 

スタンフォード式 最高の睡眠

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  • 作者:西野 精治
  • 発売日: 2019/05/07
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大卒も高卒も煽りがウザいのでどっちが無謬というわけでもないという話。

 私は高校卒業してすぐに夜学に入学して仕事を始めている。従って、感覚的には高卒でもあるし、大卒でもあるという不思議なものだ。

 そうであるから、大卒の高卒に対する見下しに似た侮辱も受けたこともあるし、高卒でそのまま仕事についた人間が大卒で入ってきた人間に対してする侮辱的な言動のどちらも受けたことがある。

 前者は「勉強ができないから夜学にしか行けなかったんだろう」的なニュアンスで人の人生についてあれこれ言ってくるのが相当にウザかったし、後者については「大学出てるのにこんなこともわからないのか」的な「いやお前の言ってることはそもそもちゃんと教育されなきゃわからねえだろ。研修を何のためにやると思ってんだ」と思えることがしばしばあった。

 大卒の人間が「高卒」やそれに準じる学歴と見做されているものを侮辱することは、しばしばツイッターなどでも批判されている。最近見かけたものだと、高卒でそのまま自衛官になったアカウントに対して、「防衛大行けなかった高卒www」的な非常に愚劣な煽りを見かけたところだった。私自身は、こういう風に人を学歴でしか判断できない人間は大学の講義で何も学んでこなかった無教養だと思っているし、学歴を強調するシグナリングやマウントにほとほと嫌気がさす。そもそも大学というのは学問をしたい人が学問をする場所であるべきで、くだらないマウントやシグナリングにしか用いられない無能が大学に通うべきではないと思っている。また、私は大卒の給料が高卒よりも高く設定されているのはくだらないと思っている。とある職場で働いていた時期をを除き、私は大卒規定で給料などもらったこともない上に、教師や弁護士や医者や公認会計士など、大学で学んできた専門的な知識を活かす環境の職場でもないなら、殆どの大卒は高卒と同水準の技能しかないからだ。これについてはブライアン・カプランの以下の本も参考になるだろう。

 

 

 一方、私は高卒上がりが言い出す「大卒のくせにこの程度のこともわからないのか」的な煽りも相当にウザいと思っている。この連中は大概は自分が入社してきた頃のことを完全に忘却しているとしか思えないからだ。大概の人間は最初から仕事ができるわけではない。研修がいい加減な人間の得意文句といえば「考えればわかるだろ」だが、体系的な仕事の知識が身についていない段階で考えたら間違ったことを仕出かすことくらい「考えなくとも」わかるはずだ。

 私の経験上の話だが、中小企業は特に教育における初期投資を怠る事が多い。マニュアルもなく、研修も適当。それでいて教えてもいないことについて怒り始める無能な人間が極めて多い。それで人の学歴や職歴を指差して「~の割には使えねえな」と言い始めるわけだ。私はこういうことを言われることがしばしばあったので、「じゃあ、あなたは算数の九九や国語の読解をどうやって学び取ったんですか?」と訊いたり、「あなたはママ・パパからパンツの穿き方を教わらずに自力でできたんですか?」と煽り返すことにしている。

 とにかく大卒にせよ高卒にせよ、人の学歴や職歴を指差して煽る人間は大概はろくでなしだ。どっちの方がマシということではない。結局のところ、互いに礼節を保てる人間が学歴に関係なく素晴らしいという話だ。だが、そういう風に互いに礼節を保てる関係というのは稀であり、多くの人はきっとあなたに多くのマウントを仕掛けてくることだろう。何れにしても、そういう人間に出会ったときは徹底的に言い返すことが必要で、舐めさせないことが最も重要である。人間も動物であり、動物と同様に我々はマウントを取り合う動物である。であるからこそ、マウントを仕掛けられたらカウンターを仕掛け、適度にキレることも必要となるのである。上手に怒って上手に撃退しよう。私自身も今年はもっと賢くキレることを目指していきたいと思う。

 

 

あなたの怒りは武器になる (河出新書)

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  • 作者:安藤俊介
  • 発売日: 2020/10/21
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キレる!(小学館新書)

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