接近から流します

右から左に流す日々

押し付けがましいヴィーガン byマイケル・ヒューマー

 今回翻訳したのは、前回の記事でも紹介した哲学者でアナルコキャピタリストのリバタリアンでもあるマイケル・ヒューマーのものだ。

 

votoms13votoms.hatenablog.com

 

 この記事を翻訳した理由は、未だにVeganの主張に対して「本当は肉を食べたいんだろ」といった愚劣な批判が多くなされることにウンザリしたからである。他のVeganはどうだか知らないが、私自身は普通に肉が美味しいものだと思っており、だからこそ培養肉や代替肉といった産業の市場流通を応援している。

 誰でもわかるように言えば、「肉は不味いから食べるべきではない」などと思ってVeganを実践しているのではなく、「肉を食べることは他者への危害であるから食べるべきではない」という意味で実践しているので、(現状では怪しい企業もあるとはいえ)培養肉や代替肉のように他者に害を加えずに生産された製品を利用するのは何ら矛盾なく成立するということだ。

 肉の味覚的な欲求を否定してVeganになったわけではないし、そもそもveganismの主張というのは嗜好次元の話ではない上に、我々が他者危害禁止規範という基本的な道徳的命題に従う限り、中途半端なロジックで否定できる理論ではないことを今一度強調しなければならない。

以下は翻訳である。

http://fakenous.net/?p=64

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 ヴィーガンは「押し付けがましい」「偏狭な道徳主義的」「性急な裁きたがり屋」と思いますか?私は時々このような苦情を聞くことがあります。気難しい菜食主義者が自分の皿に豆腐やブロッコリーを盛るのはとてもいいことのように聞こえますが、彼らはどこで「偏狭な道徳主義的」なことを言って他の人に迷惑をかけているのでしょうか?しかし、彼らはどこで彼らの "道徳的な懸念 "と他の人を悩ませ、人々が罪悪感を感じさせるようにしようとしているのですか?いつになったら、彼らは黙ってケールジュースを飲もうとしているのでしょうか?

 もしあなたがこれらの不満を共有しているなら、あなたは道徳を真剣に受け止めていないと思います。

 ヴィーガンは個人的に肉を食べるのが嫌いな人ではありません。私たちはただの偏食者ではありません。ヴィーガンの多くは、肉を食べることは道徳的に間違っていると考えている人たちです。さらに、私たちは肉を食べることを些細なことだとは思っていません。極端に間違っていると考えています。害の量という点では、この種の行為は、人間が行った他のすべての悪事を合わせたものよりも、はるかに大きな差で上回っています。

 これらのことを考える理由は、他の場所ではっきりと長く説明されていますので、ここでは繰り返しません。(私の近々出版予定の本: https://www.amazon.com/dp/1138328294/ を参照してください。) ただ、それが私たちが考えていることであることを受け入れてください。おそらく、あなたはそれらの信念に同意しないかもしれませんが、実際にはそれが私たちの信念であることを 受け入れてください。

 

Dialogues on Ethical Vegetarianism

Dialogues on Ethical Vegetarianism

  • 作者:Huemer, Michael
  • 発売日: 2019/04/16
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 それが人が考えていることなら、ヴィーガンは何をすべきか?ただ黙って黙ってケールジュースを飲むべきなのでしょうか?

 いいえ、そうすべきではありません。道徳を気にしないのであれば別ですが。他の人が恐ろしい過ちを犯しているときに、それが間違っていることを伝えることは、本当に最低限の対応です。

 もちろん、ビーガンが軽薄に主張していると思えば、迷惑なことだと思うかもしれませんが。もし私の友人がすべてをホロコーストと比較し始めたら - ウェイトレスが彼の注文を台無しにしたら、彼女はヒトラーのようだ、私が彼の論文を適切に引用できなかったら、それは学術的なホロコーストだ、など。- 私はこれを迷惑だと思って、友人に「もう黙ってろ」と言うかもしれません。

 しかし、ビーガンは明らかに軽薄な主張をしているわけではありません。ヴィーガンの議論には、多くの洗練された哲学者が答えられないと考えているような単純明快な論理があります。肉食者が侮辱的な表現をやめて、彼らと議論しようとするとき、彼らが提起する反論は、哲学の中でも最も不条理で、最も簡単に答えられる反論の一つです(ちなみに、それは、哲学の中で最も簡単に答えられる反論です)。ところで、これは文献を知る人の間で広く共有されている評価です。

 私の研究を知らない人は、私が過信しているだけで、人と意見が合わないことについてはすべてそう言っていると思うかもしれません。しかし、私の作品の他の部分を知っていれば、実際、私が他の何についてもそう言っていることを知っているはずです。これは文字通り、最も一方的な論争の問題だと思います。私が持っている他のすべての物議を醸す信念は、それに対してより合理的な反論を持っています。

 繰り返しになりますが、あなたはそれに同意しないかもしれません。私が今言いたいのは、ビーガンは軽薄なモラルの問題を提起しているわけではないということです。文献を見て、この点に反対する人がいるとは思えません。

 ですから、ある一般的な行動が少しではなく、極端に間違っているのではないかという深刻な懸念を持っている人がいて、あなたの最初の反応が「押し付けがましい」というのであれば、それは道徳を真剣に考えていないということになります。私は、ほとんどの人が道徳を全く真面目に受け止めていないのではないかと思っています。彼らは道徳を些細な個人的な嗜好品として扱い、他人が深刻な道徳的懸念を提起することを無礼な迷惑とみなし、道徳的な行動を軽蔑しているのです。

 

 

 

 

刑務官は人間の屑である②

 はじめに

 前回に引き続き、刑務官の劣悪さについて書いていこうと思う。国家公務員だからと安易にこの公務員になろうとする犠牲者が出ないためだ。また、本当に受刑者の矯正改善がしたいと思ってるような人は、そもそも刑務官になるべきではないと思う。刑務官にそのような使命感は不要だし、実際に私が徹底的に挫折させられたのはそこだったからである。それはそもそも刑務所のシステムが矯正改善に全く適さない事を指しているわけだが、これについては後述していこうと思う。

 ちなみに、この記事は私の怒りと恨みを込めたものなので、公平性のある記述とは言えないかもしれない。しかし、こうした体験をしてきたという私の視点はきっと意義深いものだと信じているので、その点を踏まえて読んでいただきたい。

 

 矯正改善なんて綺麗事

 これは前回にも書いた私たちを指導する警備主任が言い放った言葉だ。「矯正改善などというのは綺麗事で、監視が俺たちの仕事。奴らを外に出さないことが最重要任務」という話だった。

 私が勤務していた刑務所というのは分類で言えばB刑務所と呼ばれるもので、執行刑期が10年未満で犯罪傾向が進んでいる人間を収容する場所だった。つまり累犯を相手にする刑務所だ。そんな訳で、そもそも矯正改善などハナから考えていないし、期待するだけ無駄だということを最初に教わるわけだ。

 これは度々色々な人から教わる。彼らが特に危惧しているのは刑務官と受刑者が親密な関係になってしまい、籠絡されてしまうことだった。籠絡事故とは、例えば受刑者によかれと思って(規則違反となる)便宜を図ったら、その要求がどんどんエスカレートしてしまい、最終的には携帯やタバコまで使わせてしまうような事例を指す。だから多くの刑務官は受刑者を奴らと呼び、あたかも普通の人間ではないように言うわけである。何度も「どんなに気がいい人間に思えても、奴らは一度は犯罪を犯した人間。絶対に心を許すな」と度々言われたものだった。

 しかし、私は岡本茂樹先生の本を読んでいたこともあり、そもそもそうした日本の刑務所のシステムに問題があるのでは?と思っていた。刑務所は犯罪を犯した人間がいく場所だから、とにかく厳しくすべきで、自由やゆとりのある空間であってはならない、と多くの人が思っている。だから刑務官も受刑者と個人的な繋がりを持ってはいけないし、徹底的に厳しくやらなければならないのだとなるわけだ。しかし、そのやり方は果てしなく非人間的だ。そんな非人間的な環境で矯正改善なんてそもそもできるわけがないのではないか。最初から人間扱いをしていない場所で、どう人間として生きることを教えられるのか私には謎である。

 

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

  • 作者:岡本 茂樹
  • 発売日: 2013/05/17
  • メディア: 単行本
 

 

 

凶悪犯罪者こそ更生します(新潮新書)

凶悪犯罪者こそ更生します(新潮新書)

 

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  ノルウエーの刑務所も一時期は厳罰傾向が高かったらしい。しかし、ニルス・クリスティをはじめとした刑事法学者の牽引もあり、現在は修復的司法を前提とした上で囚人を人間的に扱う矯正施設となっているそうだ。実際にノルウエーの刑務所は再犯率が低いことでも有名だ。

 岡本茂樹の本にも書いてあったし、映画『プリズン・サークル』でも同様の描写があるが、犯罪者は加害者であるのと同時に被害者でもある場合が多い。

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  彼らはそもそも苦しめられてきたが故に犯罪に走る。にもかかわらず、社会は彼らを非人間的に扱い、出所後もスティグマを貼られてろくに人間的な扱いを受けることはない。だから、日本の再犯率が高いままなのは、決して個人の自己責任の問題だけではあり得ないと私は思っている。寧ろ、刑務所はそうした人間を再生産し続ける最悪の場所なのではないだろうか。

 

 

 「こいつらは動物以下」だと言われる受刑者たち

 「さて、動物への餌やりだ」と看守部長が言った。研修中、我々は何度も保護室に立会したが、そこは本当に酷かった。自分の糞便を食べたり、それで壁に書いたり、一日中大声騒音を出し続けていたり、まあはっきり言えば精神に何らかの異常を来している受刑者が入っていたりするわけだ。薬物のやりすぎで精神異常を併発している人が殆どらしいが、そもそもこうなる以前に適切な薬物治療をしっかりすべきだったのではないかと私は疑問に思わざるを得ない。

 日本の司法では薬物の所持・使用は犯罪だが、こうした薬物の犯罪化は、依存症の人間を依存症治療のノウハウが蓄積されていない刑務所に送り込むだけで、全く合理的な意味はないと思う。田代まさしがそうであるように、本人の意思ではやめられないのが薬物の怖さなのだし、刑務所に何度ぶち込もうが薬物をやめさせられるわけではないのである。

 まして保護室に入るまでになってしまったらもうどうにもできない。ここの受刑者は(Veganとしてはあまりこの表現は使いたくはないが)完全に動物と同等の扱いを受けるわけだ。もちろん、保護室の糞便を処理する業務にあたっている警備隊の人間は大変だろうし、業務のキツさは世間一般的に同情に値するだろうが、新拝命の刑務官相手に受刑者を「動物」扱いさせるような教育を行うのは果たして正しいと言えるのか?本来ならば、彼らは適切な環境で治療を受けたほうがいい存在にもかかわらず、非人間的に扱うことを正当化する発言を平然と行う神経は理解不能である。

 他にも、保護室に入るまでにはならないが、自分の行為について善悪の区別がついているのかわからない知的障害者の受刑者が普通にいたりする。これはまさに日本の司法が知的障害者に対応しきれていない証左としか言いようがないが、刑務官は(本来なら真っ当な福祉サービスを受けるべき彼らに対して)バカ扱いして嘲笑するわけである。正直、私にはこれが一番精神的にキツかった。刑務所の規則は滅茶苦茶きめ細かいため、就寝時間であるべき時間内で(ストレッチを含む)運動や読書をしていたら反則行為となってしまうわけだが、知的障害を持った受刑者にはその意味が理解できない人がいるのだ。Tという受刑者は本を読んでいて、没収された。その本は詩集だったと記憶している。

 私を指導していた高卒上がりでまだ未成年者の刑務官は「こいつはバカだから反則で懲罰かけても意味がないんすよ。だから毎回こうやって本をとりあげてるんです」と言っていた。

 私には、そもそも取り上げる意味すら理解できなかった。本来、反則行為として処分すべきなのにそうしないのなら、取り上げようが取り上げまいが何ら規則違反であるという意味は変わらない。これは秩序維持を名目とした障害者苛めなのではないかと私は強く思った。

 この時点で、私には刑務官を継続するインセンティブが殆どなくなっていったのだった。他、一気にやる気がなくなった教育システムの酷さについては、後日まとまった記事を再び出そうと思う。今回はここまでだ。

 これを読んだ人、どうかこれ以上厳罰を望まないで欲しい。貴方の犯罪に対する怒りは尤もだが、解決策は間違っていることを自覚して欲しい。厳罰を望めば望むほど、本来必要なケアが滞り、結果的に犯罪を再生産することにつながってしまうことをよく理解してほしい。

刑務官は人間の屑である

 前回、私は以下のような記事を出した。

votoms13votoms.hatenablog.com

 

 この記事を書いてる中で、そもそも体育会系とはそもそも何なのかをはっきり示した方がいいのかもしれないなと思った。体育会系とは一口に言っても、スポーツをやってる人間全般をそう指すわけにはいかないだろうからだ。桑田真澄のように体育会系特有の理不尽さを否定するスポーツマンはそれなりにいるし、現在はそうした風潮が強くなってきてるところもある。

 が、一方で全く進歩もせずに人を殺して平然としている業界がある。武道関連、特に柔道だ。

 

toyokeizai.net

 正直、この結果には全く驚かなかった。私の知る限り、武道で人格が向上している人間など見たことがなかったからだ。中学校にあった剣道部では陰湿ないじめが横行していたし、武道で人格の涵養と言ってる人間は大概は大法螺吹きだろうと直観で理解していた。

 この直観が全くもって正しいことは、直近で勤務していた刑務官でより理解できた。この連中とくれば、後輩を指導する能力が欠如しており、しかも民間では決して通用できないような無能の集まりの癖に、やたらと武道をやってきたかどうかで人を判断する低レベルな人間だったりする。武道をやってこなかった人間、普通に拝命を受けた刑務官はその時点で扱いに差別を受ける。それで脳細胞が度重なる脳震盪で壊死でもしてるんじゃないかと思えるような莫迦共が上に上がっていく。教える能力が全く欠如してる莫迦が、受刑者の指導なんてそもそも出来るのかと疑問に抱かずにいられないが、日本の刑務所で再犯率が極めて高いのは、刑務所のシステムがそもそも狂ってることに加え、こんな無能に指導させてるからだろうことは間違いない。

 私の話をしよう。この無能連中の指導役である警備主任の話だ。この低能無能低知能は剣道以外に取り柄のない超がつくほどの無能で、後輩をしばくぐらいの能力しかなく、私が先輩に出してくるように頼まれた日誌を提出しに行ったとき、なぜか私が一切内容に触れていない日誌の内容について激怒し始め、全く弁解の余地もなくマウントをかけてきた記憶がある。

 恐らく、高卒から刑務官に上がってそのまま世間も勉強せずにきた無能だから、勝手に私の経歴にコンプレックスを抱いてあてつけで攻撃してきたに違いないが、要するに刑務官なんてのは自分が上位に立てば下と見なした相手にとことん理不尽な要求をしてくる人格の未熟なダメ人間ということだ。子どもがそのまま大人になって喚き散らしてる見苦しい連中ばっかりだが、だから刑務官が受刑者をいじめて殺しても何ら不思議には思わなかった。

www.jrcl.net

結局、高卒(或いは大卒)上がりでそのまま自分よりも遥かに歳をとった人間に高圧的な態度をとるのが日常なので、自分を何か偉くなったと思い込んでいる異常者ばかりが育つわけだ。

 

 とまあ、体育会系とはまさにそういう連中の事を指している。要するに人間について上か下かでしか判断できない無能な連中のことだ。この有害で人間の屑としか言いようがない異常な連中を指導者の地位に立ててはならないし、日本社会において必要な教育は体育会系人種を徹底的に排除することにあるだろう。

体育会系との付き合い方

https://archive.vn/2020.10.20-144653/https://cakes.mu/posts/32035

cakes.mu

 ツイッターでとある男の記事が非難轟々だったのをみた。

 元記事の内容を読んだとき、私は特に次の文章について特に注目した。

 

ぼくの経験上ですけど、そんな状況は5日が限界。ぼくは20代のころにCM撮影の現場で20時間労働を5日間連続で経験したことがありますけど、4日目にフラッと気を失いそうになって、5日目に寝坊しました。写真の撮影の世界ではここまで過酷な条件ってほぼないんだけど、CM撮影の世界って狂ってるくらい過酷なんですよ。
本当に数年間、毎日深夜まで休日がなく働いたら、過労死をするか自殺をするか体調を崩すよね。睡眠がとれないと思考回路はまともに機能しないし、帰宅して寝ているあなたを叩き起こす気力も、あなたを引きずって実家に連れて行く気力もないよ。

  

 こうした他人の労苦を平然と侮辱する傾向は、特に体育会系の人種に共通した特徴だと私は考えている。彼らは基本的に他人の苦労を認めることが少ない。「自分はこれだけ忍耐できたのだから、他人も同じ堪えられるものだろうし、それが普通じゃないか。大袈裟に自分の苦労を訴えるなよ」と他人をこき下ろすことが好きだし、理不尽を他人に強要して平気なくらいにモラル感覚が麻痺している人種である。

 例えばこの記事を読んでいる人の中には消防団による苛烈なアルハラ話を耳にした人がいるかもしれないが、丸山眞男が唱えた「抑圧の移譲」概念が示すように、彼らは自分がなされてきた抑圧的経験を自分より下の存在に移譲することが多い。根本的に個人の尊厳や人権という概念を理解しようとしないしバカにしてるのが普通なので、他人に暴力を振るうことが当たり前になっている。

超国家主義の論理と心理 他八篇 (岩波文庫)

超国家主義の論理と心理 他八篇 (岩波文庫)

  • 作者:丸山 眞男
  • 発売日: 2015/02/18
  • メディア: 文庫
 

  そして、世の中の人間は体育会系が大好きだ。何よりも権威や秩序を重視し、既存の社会規範を強化・再生産に貢献してくれる彼らの存在は、いわゆる「老害」に大人気である。ここで言う「老害」とは、おおよそ昭和年代の美徳、パワハラモラハラ・セクハラなどのハラスメントを寧ろ必要なものだと感じてる連中を指している。例えば、「今の若者は少し言われたくらいでダメになる。甘えている」と平然と言い放つ連中はまさにそうだ。

 もちろん、確かにそういう若者もいるのだろう。ある程度は堪える度量が必要なのは私も同意する。人生は混沌に満ちていて、とても苦痛が多いわけだし、そういうもの全てから逃げることはできない。何より、逃げ続ければ必ず自分の惨めさに嘆くようなときが来てしまう。それは長期的な視点から言っても当人のためにはならない。そういう意味で、私はジョーダン・ピーターソンの提唱する12のルールにかなり同意的である。

 

 従って、「男(女)らしさから解放されよう」といった主張には懐疑的にならざるを得ない。現行のジェンダーが有害さを含むのは否定する気はないが、現実にジェンダーロールから降りた場合、かなり強烈なリスクや攻撃に晒されてより惨めになってしまう人もいるだろうからだ。

 

 冒頭でも触れたように世間一般の人間は体育会系が大好きだ。彼らの対人方法は極めて差別的で、上か下かしかない。消防団でも刑務官でも警察官でも良いが、こうした業の人間は自分より弱いと思った相手にはとことん舐めた態度でかかってくるものだ。和を尊び、愛想がよく、相手と協調したり共感しようとする人のいい貴方は、真っ先に体育会系人種の餌食となることだろう。森の中でひっそりと生きるうさぎのように誰にも害を与えようとしない貴方は、しかしそうであるが故に体育会系人種にとって頗る都合がいい存在となるのだ。

 実は私自身、そういうところで苦労してきたところがある。意外に思われるかもしれないが、自衛官だった頃は特にそうでもなかったとし、結構周囲から可愛がられた記憶がある。当時は夜学に通いながらという部分で、それなりに配慮されていたのかもしれないが、私が自衛隊をかなり贔屓目にみているのは、体育会系の代名詞とも言われる軍隊組織である筈の場所が、今まで経験してきた職場環境の中で最も優れていたし、面倒見の良い人たちばかりだったからである。が、他の職場はまさに最低だった。私はなで肩の着痩せするタイプで、顔が塩系なので、とにかくオラオラしてるタイプから標的にされることが多かったと記憶している。対立とか人と争うのが好きじゃないので、基本的に理不尽な要求や指導にも我慢するようにしていた。報酬原理から言って、自分が好意で返せば相手も好意で返してくれるだろうと素朴に思っていたところもあった。しかし、体育会系にそのような報酬原理は通用しないのだ。それは直近で勤務していた刑務官だったときに思い知った。奴らは頭を下げれば下げるほどに増長し、とにかく要求をでかくしてくる。全く教えてもいないことで怒鳴りつけたり、自分と全く無関係で先輩がやらかしたことでも責任を擦りつけてくる。指導者の無能さは免責され、後輩の出来が悪いのはついて来れない当人が全て悪いという狂った状況を形成する。これが体育会系人種の常であり、そういう人間に対しては、譲歩したり謙遜していくのは明らかに命とりとなってしまうのである。普通であれば会話によるコミュニケーションで相互に理解をしようと努めるのが健全な人間関係だが、奴らは言葉を用いたコミュニケーションをしようとはしない。「こいつは自分より上なのか下なのか?」という身分的コミュニケーションの判断基準以外持っていないのだ。だから、そういう人間ばかりの環境においては、人の良さを発揮して自分を小さく見せようとすればするほど奴らに付け込まれる原因となってしまうのである。

 

 では、こうした連中にはどう対応すべきか。ずっと良いように使われて生きるというのも確かにある。そういう生き方を無理やり否定するつもりはないし、それも一つの個人の選択だろうと思う。愛想笑いを浮かべながら、彼らの理不尽な要求に心を殺して忠実にやっていくのも、許容できるなら別に悪いことではない。

 しかし、それはあまりにも惨めで苦痛に負けてしまうかもしれない。そんな理不尽さに堪えて生きていくのは、貴方にとって長期的にも良くないことではないか?一度はその愛想の良さや人の良さを捨ててみたらいいのではないか?まずはその第一歩として、ピーターソンが第一のルールに掲げている通り、背筋を伸ばして胸を張ってみたらどうだろう?

 ピーターソンが著書で書いているように、我々はロブスターと基本的な部分で共通している。勝者は常に自分を強調し、敗者はしょげた格好となるわけだ。ここから導ける話は一つ、つまり体育会系と交流する場合、そもそも自分を弱くみせてはならないということだ。彼らと接する際は「Don't tread on me(俺様を舐めるな)」という態度を常に維持し続けなければならない。必要ならば徹底的にブチ切れることもやったほうが良い。怒りは極めて大事な意思表示であり、連中の舐めた態度を改めさせる方法の一つでもある。

キレる!(小学館新書)

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  世の中、物分りの良い人間ばかりだったなら、平和的に話をすれば終わりで良いのかもしれない。しかし、福田恆存やピーターソンが言っているように、世の中そんなに優しい人ばかりではないのが現実で、体育会系を筆頭に貴方を食い物にしようと狙っている人間が多いことが否定し難い実態なのだ。そうしたカオスに満ちた世界で生き抜くには、結局の所として自分で自分を強く変えていくしかないのだ。

ズボラベジのすゝめ

 最初に断っておくと、この記事は「ヴィーガンの言ってることには正当性を感じてるんだけど、実践するのは面倒くさそうで嫌だなあ」とか心理的なコストとして実践がキツいと思ってる人向けのものである。従って、生活の至るところで動物性を全面的に排除するやり方を提唱するものでもないし、アンチヴィーガンと議論するつもりも毛頭ない。だから、そもそもそういう方法に共感を覚えない人はさっさとブラウザバックして欲しい。

 

 さて、とにかくヴィーガンというのは制約が多い。殆どの人は機会主義的な雑食者で、美味しいものの誘惑もあれば、現状維持バイアスというのが強固に働く。更に健康に悪いという習慣や、倫理的に善くないと思っていることでも、認知的不協和から変えにくいことはとても多い。最近は企業努力によってヴィーガンでも利用できるものは多くなりつつあるが、殆どの一般人にとって、どれだけ説得力を感じたとしてもヴィーガンになるというのはエベレスト登山くらいキツくみえるものなのは否定しようがない。

 

 これは私自身そうだった。そもそも肉が大好きで、特にすき焼きとKFCのフライドチキンが大好物だった。今でも未練があるし、培養肉技術が進歩して普通に流通し始めたら多分に食べるだろうと思う。そうした食に関する選好はさておき、私自身、「いやヴィーガンは無理や。せいぜいアニマル・ウェルフェア向上くらいが現実的やろ。とにかく面倒くさくて自分にはできそうにない」と思ってた時期があったし、面倒だからヴィーガンになれないという人の気持は結構理解できるつもりである。

 

 じゃあ、どうやってそれを今くらいまで変えられたのかと言うと、私はかなりいい加減なベジタリアンから始まったのがスタート地点だった。

 朝食についてはシリアルにしてみたが、乳成分も入ってるグラノーラだった。それを牛乳から豆乳に変えてみて、シリアル朝食に慣れてきた時点で動物性が一切入っていないオールブランに変えたりした。

 昼食や夕食については、動物性の出汁が入ってるものはある程度許容した。例えば、幸楽苑のゆず塩ラーメンは間違いなく動物性の出汁が入ってたりするし、煮るラーとかも辛ラーメン以外は動物性のエキスが必ず入ってるが、固形の動物肉(魚含む)を入れない限りは許容する方法をとった。だから例えば、駅前の立ち食い蕎麦とかでわかめ蕎麦とか山菜そばとかも食べてたし、モスバーガーの(今はグリーンバーガーがあるからそっちを頼めばいいとは思うが)大豆パティバーガーをよく食べてた。

 

 ここで重要なのは、とにかく固形だったりメインの成分が動物となってるものを避けることに慣れるということだ。これができてくると段々と面倒でもなくなってくる。

 

 さて、これと並行しながらやってほしいことは何かというと、簡単なものでいいから料理になれるということだ。一番楽勝なのはパスタと蕎麦だ。どちらも良質なタンパク質と糖質を摂取できる天才的な食材である。蕎麦の場合はイオンで鰹節抜きの昆布つゆが販売されているので、そっちを購入すると楽だろう。

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 自分の経験上、ヨークベニマルとかイオンで売ってるミックスビーンズ(パスタ向け)や油揚げ(蕎麦向け)を+するとタンパク質も多く摂取できる。パスタならペペロンチーノだとかアラビアータソースあたりが市販でも動物性抜きのものが売ってたりするので、それを使うととても楽だ。

 パスタと蕎麦は調理もかなり簡単な上に(蕎麦なら10割蕎麦にすべきだが)栄養も良質なので、迷ったならこれをつくれるようにすればいい。これができるようになれば、あとは少しずつレパートリーを増やしていけばいいだけだ。最初から大豆ミートの唐揚げだとか、豆乳をつかったお菓子だとか、あんまり凝ったものを考えない方が精神衛生的にも良い。もちろん、つくれた方が味覚的には満足できることは多いが、まずは身近にできるところからはじめてみた方が建設的である。

 また、できるなら運動を取り入れた上で、睡眠リズムは整えられていた方がいい。私の経験則でしかないが、運動不足に陥ってるときや睡眠リズムが不規則に陥ってる場合、とにかく脂っこくて、味がとても濃いものを欲したくなる傾向があった。現状の職場環境がどうしてもそうした場所で、当分は抜け出せない場合、頻度を減らすということから意識してみるといいかもしれない。それは人によってまちまちなので断言することはできないが、週に一度は自分の弱さや悪を許す日をつくるといいのではないかと思う。貴方は頑張ってそこまで堪えたのだから、たまには自分を許すときがあってもいいはずだ。

 

 とにかく最初から何もかも完璧を目指さないことが大事だ。他人と比較するのではなく、昨日の自分と今の自分を比較して変化を感じとろう。今まで朝食はベーコンエッグだったという人なら、グラノーラに据えかえるだけでも貴方にとって大きな変化となるはずだ。そういう少しずつの変化を楽しむことからはじめていくべきだ。

 

 

エリートが嫌いだとしてもその逆は好きになれない理由

 マジでただの愚痴なのだが、知的なエリートの傲慢さを嘲弄することが好きな人なり共感する人はきっと多いんだろうと思う。自民党の(語義的には明らかな誤用だが)反知性主義的態度に喝采を叫ぶ人は多いんだろうし、アメリカでトランプが労働者階級に支持される理由もそういう部分に関係している部分はあるんだろう。実際、自分も恵まれた環境とは言い難い状況だったので、右派的な反エリート的言説に共感できる部分もまあまああるのは確かである。

 

 しかし、私はその逆の立場による傲慢な態度も大嫌いなのだ。ガテン系だろうが職人系だろうが体育会系だろうが全部共通することだが、こういう連中の「見て覚えろ」式な感覚経験頼りで全てを判断するやり方も真面目にゴミというか、真面目にこの莫迦共がバカにしている動物未満のやり方としか思えないわけだ。

 例えば、ホモサピエンス式な見て覚えろ教育は「全く指導していない」ことについて叱り飛ばすという狂った内容なのが多いわけだが、他の動物の教育法でそのような狂った方法は現状確認されてはいない。例えば、多くの頭の悪い人間が「チンパンww」とバカにしてるチンパンジーについては、ホモサピエンスと同様に教育方法が「見て覚えろ」式ではあるが、その教育方法はホモサピエンスよりも遥かに素晴らしいとしか言いようがない。以下、引用する。

 

チンパンジーの学習って、人間みたいに手取り足取り教えてもらうということがないんですよね。親は手本を見せるだけで積極的に教えるわけではないんだけれども、子どもが何かしようとすると、非常に寛容に優しく、いや、優しくというか、拒否はせずに黙って手本を見せ続けるっていうのがチンパンジーの母親、親のあり方だと。松沢先生なんかに言わせると、師弟教育、ですね」

 

natgeo.nikkeibp.co.jp

 

 ホモサピエンスが他の動物と比較して秀逸だと言われていることは、「見て覚えろ」式教育から、必要な事を明文化してマニュアル化し、それを中央集権的に平均化して教育できるところにある。

 しかし、大概の会社というのはこれができていない。自衛隊の教育システムが如何に素晴らしいかについては前回の記事で書いたが、大概の職場では「見て覚えろ」&「できなきゃこき下ろしてやる」&「教えてないけどわかって当然」という非常に愚劣で蒙昧な指導システムとなっている。そしてそういう頭の悪い組織構造を一切省みる気もなく、入ってきたばかりの人間をこき下ろして悦に浸ってる老害を再生産しているのが現状なのだ。

 

votoms13votoms.hatenablog.com

 言ってみれば、日本に存在する殆どの会社の教育システムは、チンパンジーらの動物よりも明らかに劣っている。にもかかわらず、ホモサピエンスの特性として「教育」を挙げられるのは全く納得がいかないわけだ。まして、ガテン系にしろ職人系にしろ脳に「ロゴス」が入ってない体育会系の連中が、エリート批判をしているのをみてるとへそで茶を沸かすようなもんだと思う。

 娘に四則演算すら教えられない親とか恥ずかしいとか思わないのだろうが、こういう連中が職場がイニシアティブをとってろくにまとも教育もできない職場を形成していることがそもそもの問題なんじゃないかと私は思っている。

 

 世の中の後継者不足で悩む職場の99%はまず自分たちの職場が「まとも」なのかどうか考えてから若者を批判すれば良いんじゃないだろうか。

 少なくとも、あんたら人間を名乗る資格なんて無いよ。

結局、自衛隊が殆どの職場よりもマシでホワイトである理由

 

 先日、久々にこの漫画を読んだ。

note.com

 それからこの記事も読んだ。

news.yahoo.co.jp

 この2つを読んだ上で、久々に過去を回顧して一つまとまった記事を出したくなった。

 私は高校卒業後、自衛官として4年勤務していた。自衛官になったのは何か特別高尚な理念があったわけではないのだが、夜間大学に通学するための手段として利用させてもらったという利己的な理由が半分を占める(単純な好奇心もあったのも事実だが)。

 演習や演習場整備、それから検閲(訓練成果の集大成を試験する超ハードな演習だと理解してもらえばいい)や災害派遣とかで通学が難しい場合も多いが、自衛隊は夜間や通信制で勉強することを結構認めてくれる。私の場合は入学が教育隊入隊と一緒だったので、周囲がコンパとか楽しんでる最中、戦訓で汗やら泥まみれになっていたわけだが、それでも中隊配属後すぐに通学証を発行してもらえたことを記憶している。

 訓練はやはりキツい。私は普通科所属だったのだが、穴掘りやら夜間行軍やら、死ぬほどキツかった思い出がある。それから冬山で凍えながら演習をやったのもキツかったし、スキー行軍とか気が狂うほどキツかった記憶もある。

 普通に入隊するなら隊舎で生活することになり、必然的に集団生活となるので、人間関係は他の官公庁や民間よりも濃くなるし、部屋は先輩と同部屋。ガチャ運が悪いと面倒くせえなあと思うような人とも辛抱強く付き合っていかなければならない。相部屋なのでプライベートは制限されるし、外出なんかも許可制で門限があるから、そういう意味では娑婆と比べて不自由だとは言えるし、階級と序列がものを言う社会なので、ある程度は縦社会の厳しさを覚悟する必要があるだろう。

 だから、ひと昔前の「ノルマ稼ぎ」広報官の様に、ある意味では詐欺的な誇大広告で「自衛隊は楽だよ!!」みたいな虚偽は吹聴されるべきではない。

 

 だが、一方で「自衛隊」=「ブラック」みたいなイメージは変だなあと思っている。

 当たり前だが、どんな仕事でもキツいものはキツいもので、仕事の厳しさは付随してくるものだ。演習なり行軍なり、そういうものは確かにキツいし厳しいが、終われば平坦で楽な業務になったりする。自衛隊の業務にも波があるので、キツいときはキツいし、楽なときは楽だ。残業という概念がないので、部署によっては「定時通り」にいかない場合もあるのだろうが、私のいた普通科の部隊では原則的に0815~1715の課業で、演習なり特別なことがない限りは原則的に定時で終了だった。福利厚生は公務員なので抜群だし、睡眠もしっかり摂れる上に、体は自動的に鍛えられるから、よっぽど自分で不摂生をしなければ健康体でいられるはずだ。ご飯も健康に配慮されている上に美味しい。自衛隊的には「食べることや寝ることも仕事」だということになるわけだが、政府が働き方改革をする以前からこうした土壌が整っている部分は非常に評価できる。

 下がやるべき雑用なんかも、最初は一通り覚えておくのは大変に見えるが、慣れてくると大したことではなくなる。ゴミ出しであるとか、先輩が何かやってたら手伝うとか、宴会の席では一番下は酌をして回るとか、まあ世間一般としてはよくあるものだ。そこまで非常識なものはない。後輩を顎でこき使うような先輩もいるのだろうが、大概そういう輩は嫌われるし、評判は良くない。パワハラ気味の上司もいるにはいたが、そういう非常識な人間は周囲から距離を置かれることも多い。パワハラの境界は曖昧だと言われることが多いが、明らかに駄目なことは殆どの人が認知している。肉体的暴力にしろ、精神的暴力にしろ、性的暴力(セクハラ含む)にしろ、自衛隊はそれを組織で抑制しようと努めていたし、それは大概のまともな企業ならやっていることだ。そのまともな企業の中でもパワハラ・セクハラ・モラハラ親父を根絶しきれていないのだから、自衛隊が比較的に暴力が横行しているというわけではないように思える。

 何より、自衛隊では教育がまともに機能している。人生設計の教育にしろ、ハラスメント防止の教育にしろ、「統制」の名の下において全体に普及させる集権的でシステマチックな方法をとっている。研修にしても、他の官公庁や娑婆の企業がOJTという名の「放置」教育をしている中、自衛隊は6ヶ月間みっちり教育を行う。まして、中隊所属した後も、殆どは単独の業務はやらない。中隊全員で下の教育や面倒を見る。これに関しては他のどんな職場よりも優れた教育システムを持っている。「警察官をクビになった話」に出てくる警察学校では、平然とふるいにかけていくようだが、自衛隊の教育隊は(それでも辞めていく人は何人かは出てくるものだが)「如何にして全員がゴールできるか」を指導者側は考える。ちなみに、私がいた教育隊は誰一人として脱落者が出なかった。

 一時期刑務官になったこともあるが、あそこの指導システムはまさに最悪の代物だったことを覚えている。新人の教育を専門とする警備主任は、他の仕事を兼務しながらとなるので、指導内容も雑になりやすい。まして、2週間の(実務と殆ど無関係な)座学を少しやっただけで、殆どズブの素人をいきなり現場に出す。体系的に実務を身に着けているわけでもなく、わからないことが殆どであるにも関わらず、わからないことを平気で怒鳴り散らす。挙げ句に怒鳴り散らすことが「面倒をみてやっている」と気が狂ってるかのような事を言い出す。

 ここまで狂った人間が多い職場はそうそう見当たらないが、ここまで行かなくとも、自衛隊以外の職場は教育システムがまともに機能していない場合が多々ある。まず第一に最初に教えておくべき業務上の注意事項を明示せずに、後から「これじゃ駄目なんだよ」を言い出す上司や先輩は無能としか言いようがない上に、本来は指導する側の責任であるはずだが、こうしたことを下の理解力不足に責任転嫁させる職場はとんでもなく多いはずだ。第二に、マニュアルを作成して全体に普及させるべきことを全くやっていない職場も多いだろう。そういう職場では往々にして「人によってやってることと言ってることが違う」という悪しき職人化が起きてしまう。人によっては「人の話を聞いてるときはメモをとれ」と指導しているのに、別の人は「メモをとっててちゃんと人の話を聞いてるのか?」と指導する人間がいたら、指導に従う側は何を信じて行動すべきなのか指針を失う(ちなみにこれは刑務官だった頃に実際に言われたことだ)。指導する側はしっかりとした普遍的基準を示して指導すべきであり、そこに例外を付すならきちんとそれを定式化して教えるべきだろう。だが、これをきっちりできている職場は殆ど無いと言ってもいい。

 

 結局、自衛隊が相対的にホワイトな職場なのだ。大概の官公庁や娑婆の企業と比べれば、ここまで「まとも」な職場は寧ろ珍しいのではないか。世間一般のイメージは「自衛隊」=「キツい」でとまったままだが、望むらくは「自衛隊はキツいけどいい職場だよね」くらいにはなってほしいと心の底から思っている。

 

自衛官という生き方 (イースト新書Q)

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  • 作者:廣幡賢一
  • 発売日: 2018/11/10
  • メディア: 新書