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ベンジャミン・クリッツァー著『21世紀の道徳』第2章 人文学は何の役に立つのか (読書メモ) 

 だいぶ時期を失したが、久しぶりにこのシリーズを更新していこう。

 内容は第2章の読書メモで、そこに教育屋である自分なりの感想をつらつら書いていくだけなので、別に面白いものではないかもしれない。参考になってもらえば幸いだが、面白そうなら是非買って読んでみてほしい。

 

 この章ではタイトル通り「人文学が何の役に立つんじゃ???」という疑問に答えるものとなっている。私自身、よく勤務先の生徒から「小説や古文や漢文が何の役に立つんですか?」と言われることも多く、恥ずかしながら答えに窮することが多い。言い訳させてもらうなら、私が来年度取得予定の免許状は中高の社会科なので、そこに真正面から答えるべきなのは国語の先生なのでは…とも思うわけだが、「歴史とかセージケーザイなんか知らなくても生きていけるし」と言われたりもする場合もあるだろう。「社会科の勉強は役に立つだろ!」と怒られそうだが、少なくとも文系の科目は理系の科目よりは「役に立たない」と思われていることは肌感覚として実感している。とにかく次世代の人材を社会に送り出す仕事をこなす身としては、なぜ人文学的な教養が必要なのかは明確に返答できなければダメだろうと思う。そういうわけで、この章は非常に興味深く読ませてもらった。

 

 この章において 筆者は「人文学は何の役に立つのか」という問いに対して、典型的な三つのパターンの返答があるという。一つ目は問う側の「敵視(例:橋下徹的な人文学をつるし上げる言動)」を捉えたもの。二つ目が「質問に質問で返す(例:「役に立つってなんですか?)」哲学っぽいもの。三つ目が質問が中立的な立場ではないということ(例:「役に立つかどうかを問うこと自体が優生思想や功利主義などの特定の立場からのものだ」を問題視する社会学っぽいものである。筆者はこの三つのパターンの何れもが論点をずらしたりぼかしたりして明確に返答することを避けている不毛なものだと考えているようである。

 そこで筆者が持ち出すのが三谷尚澄やマーサ・ヌスバウムらの立場であり、「箱の外に出て思考する能力」や批判的思考力や想像力の涵養が人文学の役割だということになる。例えば日本人とアメリカ人、韓国人やインド人など、それぞれ異なった背景や共同体出身の人々が一か月間ルームシェアをやったとしよう。それぞれの生活習慣の相違によって喧嘩になるかもしれないが、「箱に出て思考する能力」を涵養しておけば異なった背景や属性をもった人間を理解することに役立つかもしれない。批判的な想像力や思考力を身につけておけば、「当たり前」と思っていることを問い直す営みが実践されることで、民主主義がより健全に機能していくことに役立つかもしれない。筆者はこうした立場が「時代遅れで不利な戦略」になる可能性を認めた上で、こうした方向性を支持しているようである。

 

 私もこうした立場にだいたいは賛同する。どの程度の優先順位で、どれくらいのリソースを注ぎ込んで、という部分はとりあえず難しいので棚上げするとしても、文系の学問に求められるのは「どの方向に進むことがより望ましいのか」という判断能力を涵養する点に求められるものだろう。

 しかし、やはり棚上げした問題は絶対に返ってきてしまう。例えば先日、「高校数学で三角関数を教える必要などないのではないか」的な話が某議員から出て物議を醸したところだ。そして殆どの場合、三角関数の原理がどうなっているかについて、特に理解もせずに隠蔽されたまま業務をしている人も多いはずだ。

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 例えば、私は別に交通誘導警備の仕事もしているのだが、現場の職人さんで三角関数をきっちり理解して使っている人は殆どいないだろう。絶対にいないわけじゃないだろうが、殆どの職人さんは素朴物理学の範疇において業務しているはずだ。*1上の記事から引用しよう。

藤巻氏が類比するように、内燃機関やモーターやタイヤの原理の知識は車の運転に必要ないし、日常的に運転している人々の多くは理解していない。電子レンジを使うのには、電場と双極子の知識は要らず、水分があるものが加熱されることと、金属を入れると火花が飛んで異常加熱して危ないことだけ知っておけば済む。

こういう原理の隠蔽は、学問の世界でもよく行われている。正規分布の導出に必要なガウス積分の公式の導出には平面座標を三角関数で表す極座標への基底変換が必要となるはずだが、検索した限りは今回の話で藤巻氏に指摘している人はいなかった。つまり、多くの人は三角関数を知らなくても、導出に三角関数が必要な正規分布の利用に困らない。逆に、三角関数の必要性を訴えるのに、三角関数が必須ではない話が紹介されている*2のだが、これも実際は三角関数が具体的にどういう役割を果たしているのか把握されていないことを示している。

現代社会において、原理は隠蔽され、その理解は委任されている。人が一生で学べることなど限られているわけで、これは賢いやり方だ。掛け算の順番を交換する前に、ペアノの公理から掛け算が可換であることを証明しないといけないとしたら、四則演算の利用者は激減してしまう。ケータイでQRコードを読み取る前に、有限ガロア体、リードソロモン符号を勉強するのも無理がある。委任と隠蔽化は現代社会を成立させるための方針である。

 真正面からこうした教育に関する優先順位やリソースの話は、真剣に考えるなら非常に難しい。「小説や古文、漢文がどう役に立つのか」という話に戻ってみるなら、なぜそれらが優先して教育されるべきなのかが問われると旗色が悪くなるのを感じる。僕ら教育屋としては、「それでも将来的に君のニーズとして必要になるかもしれないし、こういう教養が複雑な世界をみるときに必要な視点になってくれるかもしれないじゃん!」とどれだけ戦略的に不利で時代遅れなのだとしても説き続けるしかないのだろうなあ…と思う。

  

 

*1:こうした話をしているときに、「バカだな。三角関数がなかったら、建設現場の仕事なんてなかっただろ」と言い出すアレな人もいるのだが、三角関数が建設土木の現場で原理として理解されて使ってるかどうかの話をしているときに、そういう論点をずらした返答をするのは、まさにクリッツァー氏が不毛だと考えている戦術の一つであるように思う。