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ヒトラーがベジタリアンだったとして何なのか?――「100か0」で判断する不毛さについて

 ベジタリアンに対する根強い批判に、「ヒトラーベジタリアンだった」がある。これに対する反論は「いやヒトラーベジタリアンではなかった」や「ベジタリアンではあったかもしれないが、動物倫理を土台にしたベジタリアンではなかった」などが定番なのだが、そもそも「仮にヒトラーが動物倫理を土台にしたベジタリアンだったとして何なのか」が掘り下げられていないのではないか。この問題は、単にべジタリアニズムやヴィーガニズムに対する批判の領域を超え、道徳の完全性を他人に要求しているように思える。

 例えば、ここに株式会社Xがあるとして、T部署に管理職のAさんと新人のBさんと中堅な先輩Cさんが働いているとしよう。AさんはBさんを日ごろから駄目な新人部下だと思い、厳しい表現で𠮟責しているとする。具体的には「お前、何度同じこと教えればわかるんだ!仕事を舐めてるのか!?」「覚える気がないんじゃないのか!!」といった具合だ。BさんはCさんにAさんに対する愚痴をこぼすわけだが、Cさんは「Aさんは根は悪い人じゃないんだよ」と擁護する。このような事例において、ネットではしばしば「本当にいい人なら~」構文でAさんの人格を否定したり批判することが常となっている。具体的には「本当にいい人なら〇〇(パワハラ・嫌がらせ)しない」など。

 

 まずこうした説得的定義は、特にまともな論証を踏まないのであれば基本的に詭弁の一種である。説得的定義とは具体的に次のようなものを指す。

言葉の感じからすると、相手を説得するためだけのその場限りの独自定義と言う風に捉えてしまいそうだが、それだけではなく再定義する単語が持つ肯定的/否定的感情を何かに結び付けようと言う誤謬と言うか、レトリックである。メタ倫理学者のチャールズ・スティーブンソンが提唱した概念。「事ある度に空爆を主張するあの政治家は、とても平和主義者とは言えないよ」「結果的に相手国の譲歩を引き出して大きな紛争を封じ込めているのだから、真の平和主義者と言えると思うよ」と、平和主義者か否かを政治手法ではなくその結果で定め、平和主義と言う肯定的な印象を話題の政治家に結びつけるような論法。記述的意味を再定義して任意の対称に、再定義前の情動的意味を持たせるわけだ。

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 今回は説得的定義について云々したいわけじゃないので、簡単な紹介に留める。もっと本質的な問題として、そもそもここで言う「本当にいい人」とは何なのか。この表現を具に分析してより限定するのであれば、「本当の意味で思いやり深い人」となるのだろう。しかし、そのような人は実在するのだろうか。

 先ほどのX株式会社の例に戻ろう。Aさんは一見するとパワハラ気味の上司にみえる。しかし、実はこのX株式会社自体が極めて体育会系の企業で、Aさんがそのように振舞っているのは企業の歴史的な経路依存に影響を受けているだけだとしたらどうだろうか。つまり、Aさんも同じように指導を受けてきて、それで一人前になれた背景があるかもしれない。そうなると、少なくとも、Aさん一人が異常だとは言えないだろうし、「スパルタ」で教え込むのが愛情だと考えているならば、Aさんが「思いやり深くない」とは到底言えないはずである。Cさんも同じようにしごかれてきたが、厳しくとも熱心に教えてくれるし、仕事で成功をおさめればしっかり褒めてもくれる。そういった部分をみてきたから「根は悪くない」という言葉が出たのかもしれない。また、Aさんは家族思いな一面があり、自分の弟の田圃の手伝いに有給を使っていったり、何かと一生懸命に世話をしてくれる。ちなみに、一つ言っておくならば、Aさんは女性である。

 …多少脚色しているが、これは実際に私が経験した事例である。脚色をしているのは新人のBさんは入社したての私であり、Cさんはある程度仕事を覚えた私を投影している。つまり、これは人間を最初の印象や一面的な部分だけで判断すると、「100か0」の善人/悪人しか出てこないと言いたいわけだ。人間はそうそう単純な存在ではないし、ありのままに評価しようとするなら善い部分も悪い部分も出てくるのは当然である。なぜなら、人間は合理性も不合理性も兼ね備えた可謬的存在だからである。

 同じことは犯罪者にすら言える。岡本茂樹の著した以下の書籍は、人間を善人か悪人かで区別することが如何に不毛なのかを物語っている。

 

 

 

 私自身、怒りに駆られて一面的に人を「屑」と詰ってきた過去があるので、反省しなければならないなと思ったが、人間には当然に多面性と複雑性がある。ある環境や状況・場面においては「思いやり深い」ということは十分にあり得る話であり、逆に過酷な環境下においては、「思いやり深い」とされていた人が「屑」に豹変する場合が往々にして発生するわけだ。

 

 「ヒトラーベジタリアンだ」という批判には、「こんなに極悪な人間がベジタリアニズムを支持してたぞ!」といった属人主義的詭弁が含意されている。もちろん、これには命題として興味深い点は何一つとして存在しない。リバタリアンのR.ノージックマハトマ・ガンジーなど、ベジタリアニズムの支持者でナチズムに反する人間はいくらでも存在するからである。この問題の本質は、そのような些末なところにあるのではない。そもそも、仮に動物倫理的理由でヒトラーベジタリアンだったとして、それを悪だと判定する根拠は何か、である。これは単に、ナチズムの印象で芋づる式で引きずって悪だと判定している。つまり「こんな悪いやつが支持してるなら、これも悪いことに違いない」という悪しき「100か0」判断である。これを言い出す人間は、どんな人間も完全な善にも悪にもなることができないという自明の理を忘却しているとしか言いようがない。「いや、動物に優しくすることは悪いことなんだ」と倒錯した倫理観を主張しているなら、話は別だが。

 

 最後にしばしば私が参考にしているデビット・ライス氏の道徳的動物日記からハーツォグの重要な言葉を引用してこの話は終わりにしたい。

 

ナチスの動物保護は、本来なら悪人である人たちでも動物に対して良いことをする、という一例を示している。このようなパターンの行動は稀であると私は思う。しかし、その逆…本来なら善人である人たちが動物をひどく取り扱うことは、ありふれている。例えば、アメリカでは年に1億5000万匹以上もの動物がレジャー目的のハンターによって傷つけられたり殺されたりしている。同様に、幼年期の動物虐待の大半は、後には正常な大人に育つ子供によって行われている(学校での銃乱射犯やシリアル・キラーの大半は子供時代には動物虐待をしていた、という考えは普及しているが、迷信である)。さらに、アメリカでは年に100億の動物が屠殺されている。哲学者のトム・リーガンが「フォークの専政」と呼ぶ事態である。

davitrice.hatenadiary.jp