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リバタリアニズムの終焉――陰謀論に乗っかるロン・ポールとその支持者をみた雑感

 最近のウクライナ情勢で最も残念に思ったことは、少なくないリバタリアン陰謀論に傾倒していることでした。

 とりあえず以下のツイートをご覧ください。

 

  

 先日、ロシアは小児科産婦人科の病院を砲撃したわけですが、ロシア側はこの病院に関して「長い間使われておらず、ネオナチのグループによって占拠されていた」「写ってる妊婦は役者である」といった主張をしています。一方、BBCが丁寧にこの情報について事実と符合しないことを示している…それが概ねこのツイートの趣旨となります。

 さて、驚くべきことは、このような低劣なプロパガンダを本気で信じ込んでいるリバタリアンが少なからず散見されたということです。それは所謂「無政府資本主義」を支持してるリバタリアンの面々でした。例えばTwitterにいる代表的なアナルコキャピタリストの木村貴氏などは、ロシアのプロパガンダをそのまま鵜呑みにした主張を拡散しているのがわかります。

twitter.com

 

 以前からリバタリアン情報リテラシーは非常に怪しいと思ってきたわけですが、ここまで来ると言ってることの妥当性全てに疑問符が付されることは間違いないのではないでしょうか。彼らが金科玉条の如く崇めているロン・ポールも、現在は殆ど陰謀論者と変わらない主張を繰り返しており、言ってみれば耄碌爺さんの戯言としか言いようがないのではないかと思います。そもそもロシアのような独裁体制の強い国家の主張を本気で鵜呑みにしていることも理解不能なことですが、当人たちはそれでいて論理的に一貫しているつもりなのが非常に驚愕させられます。

 

 私としてはイデオロギーがここまで人間を狂わせるのかと悲しく思う次第です。

 G.K.チェスタトンは『正統とは何か』の中でこのように言っています。

気ちがいと議論してみたまえ。諸君が勝つ見込みはおそらく百に一つも無い。健全な判断には、様々な手かせ足かせがつきまとう。しかし狂人の精神にはそんなものにはお構いなしだから、それだけすばやく疾走できるのだ。ヒューマーの感覚とか、相手に対するいたわりだとか、あるいは経験の無言の重みなどに煩わされることがない。狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである(p.22)

 かつて私は、「リバタリアニズムとは人間としての感情に欠けている奴らが支持する思想なのだ」といった批判に強く反発していました。ライサンダー・スプーナーやH・スペンサーなど、侵略戦争奴隷制にも反対し、弱き者たちの人権のために闘ってきた先人もいるからです。

 しかしながら、最近の先鋭的なリバタリアンたちには嫌悪感を感じると共に、正気を失っているとも思えます。それは結局、自分たちの金科玉条としているイデオロギーに整合するようにしか物事を捉えようとしていないからではないでしょうか。

 いや、そもそもイデオロギーすらもないのかもしれません。彼らは要するに自分が気に入らない立場に対する「反」でしか主張を成り立たせられない存在だったのかもしれない。逆張りの快感に酔い、コモンセンスを無視して「真実」を追求した結果、自分にとって耳心地が良い情報しか信じられなくなった挙句に「狂人」になり果てた。現状の彼らを見るに、もうリバタリアニズムはあらゆる意味で終わりなのかもしれません。

 

(注)

ここ最近、更に酷くなったので元の記事を改題した。一部の人々を除き、リバタリアニズムは思想として完全に終わってしまったと思う。

青野さんがこんなことを言っていた。

まさにその通りだと思う。今やリバタリアンとはネトウヨの亜流みたいなものとして見做すのが妥当なのだろうと思う。もちろん、そうではない人もいるだろうが、少なくとも木村貴をはじめとして気が狂ってるとしか言いようがないリバタリアンが目立つようになったのは、リバタリアニズムが思想として正気を失いつつある兆候とみなすことができるのではないかと思う。