接近から流します

右から左に流す日々

ウクライナへ義勇兵として志願すること、そして、エピソードを用いて持論を展開する行為についての私見

 お久しぶりです。最近は多忙を極めて読書メモがつけられていません。とはいえ、このままブログを放置するのもアレなので、ブログを刷新するついでに、最近のウクライナ情勢について自分が思うところを語りたいと思います。

 

 さて、私はこの記事を読みました。

 

mainichi.jp 

大使館から募集業務を委託された東京都内の企業関係者によると、1日夜までに約70人の志願の申し出があり、うち約50人は元自衛官だったという。かつてフランス外国人部隊に所属していた人も2人いた。

 ウクライナ側は従軍させる場合には報酬を支払うことを視野に入れるが、ツイッターでは「ボランティア」として募集。問い合わせの際に「日本にいても大して役に立たないが、何か役に立つことをしたい」などと「純粋な動機」(大使館関係者)を語る人が多かったという。

 

 実を言うと、ここ数日、私も応募するか迷っていました。それは様々な理由からです。同情心もあれば、自分の中にある野心的な功名心もあったと思いますが、色々と考えあぐねた結果、私は格安月給から捻出したお金を寄付するだけに留めるだけにしました。そう決めたのは、結局のところ「私は自分の今の生活を捨てられない」とはっきり理解したからです。「資格としてもっとできることがあるにもかかわらず、自分ができる最大限の貢献をしないのは偽善なのではないか」と今でも心中で誰かに囁かれています。そして正直なところ、実際に私の選択は偽善そのものだと思います。

 そうした罪悪感と自己嫌悪を交互に繰り返しながらも、それでも私は自分の今の日常を捨てるわけにはいかないし、今目指している目標を放り投げて他人を助けに行くのはあらゆる意味で間違っていると考えたわけです。臆病な選択であり、恥ずかしいことかもしれませんが、私は私の人生も大切である以上、利他的な協力もそこには劣位せざるを得ません。

 ウクライナへ志願した元自衛官の人たちは素晴らしいと個人的に思っています。とても私には真似できるものではないですし、殆どの人々にもできないでしょう。ただ、「日本にいても大して役に立たないが」と志願する元自衛官の発言を考えてみると、これはこの人が捨て鉢になってるのではないか、と思えなくもないのです。つまり、自分の人生を有意義なものだと思えていない、という点が志願の原動力になっている人が少なからずいるのではないか、ということです。

 元自衛官には除隊後、娑婆の日本社会に順応することが難しくなってしまう人がいると聞いたことがあります。実際に、私もそうだったかもしれません。刑務所に慣れた人が久しぶりに娑婆に出てみれば、全然適応できなくなってしまった、そんな話は枚挙にいとまがありません。そう考えてみると、こうした志願を手放しに称賛するのは、二重三重にも危ういことなのではないか、私はそう思うわけであります。

 

 話は変わりますが、ウクライナに関連してもう一つ気になることがありました。たまたま私は某ネット論客のアカウントがこんなことをつぶやいているのを目にしました。曰く、「ウクライナがああやって必死に戦ってるのは、お前たちが嫌悪している「男らしさ」や「愛国心」に駆られてのことだ」といった内容です。言ってみれば、左派やフェミニストに対する逆張り、冷笑としての発言です。

 私はこれ自体に批判があるわけではありません。実際にウクライナがあそこまで必死に奮闘できている理由は、何よりも祖国を想う精神や闘争的な男らしさに起因しているでしょう。ここには特に思うことはありません。逆張りや冷笑も、バーリンやミルが捉えた「寛容」を持ち出すなら、程度はあれどもアリな話でしょう。理解すれども、それは嘲笑や非難を一切しないという意味を含んでいるわけではないからです。

 ただ私はとんでもなくグロテスクだなと思いました。何がグロテスクなのかと言えば、現在進行形で繰り広げられている戦争を前にして、このように持論の正当性を展開し始める態度が、という点にあります。私にはどうも当事者意識が欠けた他人事だからこのような言動ができるのではないかと思うのであります。別に言ってることは間違いではないが、繰り出される表現の尻軽さがとにかく私には気持ち悪く感じるわけです。

 これは左派においても同じように感じる人がいます。例えば、社虫太郎という人です。彼はTwitterでロシアのプロパガンダを鵜呑みにしてウクライナ政府を責める言動を繰り返していますが、彼からも似たような気持ち悪さを感じ取れます。

 実在の事件を用いて持論の正当性を述べること、それが絶対に悪いとは私も思いません。しかし、そうした話を持ってくる場合、少なくとも言葉に慎重さが要求されるというのは良心的な問題なのではないかと私は考えます。何か鬼の首を取ったように嬉々としてこうやって語りだすのは、当事者となっている他人の人生について思いを馳せたことがないからこそなのだろうなと私は思います。

 

最後に、ウクライナへの支援先を明記してこの記事を締めたいと思います。それでは、ごきげんよう