接近から流します

右から左に流す日々

職業に貴賎なしは本当か?(警備員の立場から)

 先日、底辺の職業ランキングという記事が炎上したという話をどこかで読んだ。その中には当然警備員も入っていたようだ。

 私自身、過去に1号警備(施設警備員)の仕事もしてたし、現在は予備校で勤務しながら2号警備(交通誘導警備)もやってるので、なかなか耳の痛い話だなあと思ったものだ。ネットではこの記事に対する批判が氾濫しているが、少なくとも我が業界は暗黒のド底辺であることは疑いようがない。読者の中には柏耕一の『交通誘導員ヨレヨレ日記』を読んだ方はいらっしゃるだろうか。あれはまさにそのまんまの交通誘導警備の現状を表現している。

 

 施設警備も相当酷いものだが、交通誘導警備はとにかくもっと酷い。夏は暑くて冬は寒い環境的な酷さもさることながら、待遇も最悪なものが多い。そもそもあらゆる業界の中でも際立って薄給であり、それでも自前の車で朝4時5時に起きて50~100㎞先の現場まで行くこともままある。もちろんガソリン代とかは出るが、車の維持費を考えるなら長期的にはマイナスになりかねない。

 仕事内容にやりがいがあるかと言われると、真面目な話として全くそんなものは感じたことがない。現場の職人さんによってはめちゃくちゃ酷く扱われる場合もあるし(特に電気工事の現場は滅茶苦茶振り回されて辛い)、悪質なドライバーのクソみたいな煽りや暴言にも堪えなければならない(だいたいクレームを言われるのは工事業者ではなく警備員である)。*1もちろん、警備員に非常に親切な現場もあるので、一概に全部そうだとは言えないだろう。よく差し入れしてくれる監督さんもいるし、気さくに話しかけてくれる職人さんもいる。道行く人にお礼を言われる場合もあったりと、全部が全部苦痛とは言えない。そして何より、何かクレームを言われる場合というのは工事業者にもドライバーにもそれぞれの言い分があることもあるので、警備員側にも問題がある場合が当然あるだろう(駄目な警備員は実際にめちゃくちゃ多いから)。

 

 「職業に貴賎なし」「誰かの仕事で世界はできている」と言うのは容易いことだ。僕もそのような社会になることが望ましいとは思う。しかし、例えば貴方の子どもが「将来旗振り(交通誘導警備員)になりたい」と言ったと仮定しよう。それを貴方は本当に応援できるだろうか。もしそこに少しでも嫌悪感があったのであれば、残念ながらそれが交通誘導警備員に対して与えられている社会的な意味だということになるだろう。子どもの将来の夢に「交通誘導警備員」が入ってこないのは、少なくとも職業に貴賎があるという現状を物語っているのだ。もし本当にこのような状況が不健全だと真剣に考えているのであれば、「職業差別は良くない」で終わるのではなく、もう少し具体的にこの業界が良くなる処方箋を示していかなければならないのではないだろうか。

 

 

*1:私は一時期、すべての車がモルカーだったらなと想像して仕事していたが、ペットボトルぶん投げられたり、止められたことを根に持ったドライバーからひき殺されかけたりしたので、ストア哲学のアパテイアの境地に至ることにした

ベンジャミン・クリッツァー著『21世紀の道徳』第2章 人文学は何の役に立つのか (読書メモ) 

 だいぶ時期を失したが、久しぶりにこのシリーズを更新していこう。

 内容は第2章の読書メモで、そこに教育屋である自分なりの感想をつらつら書いていくだけなので、別に面白いものではないかもしれない。参考になってもらえば幸いだが、面白そうなら是非買って読んでみてほしい。

 

 この章ではタイトル通り「人文学が何の役に立つんじゃ???」という疑問に答えるものとなっている。私自身、よく勤務先の生徒から「小説や古文や漢文が何の役に立つんですか?」と言われることも多く、恥ずかしながら答えに窮することが多い。言い訳させてもらうなら、私が来年度取得予定の免許状は中高の社会科なので、そこに真正面から答えるべきなのは国語の先生なのでは…とも思うわけだが、「歴史とかセージケーザイなんか知らなくても生きていけるし」と言われたりもする場合もあるだろう。「社会科の勉強は役に立つだろ!」と怒られそうだが、少なくとも文系の科目は理系の科目よりは「役に立たない」と思われていることは肌感覚として実感している。とにかく次世代の人材を社会に送り出す仕事をこなす身としては、なぜ人文学的な教養が必要なのかは明確に返答できなければダメだろうと思う。そういうわけで、この章は非常に興味深く読ませてもらった。

 

 この章において 筆者は「人文学は何の役に立つのか」という問いに対して、典型的な三つのパターンの返答があるという。一つ目は問う側の「敵視(例:橋下徹的な人文学をつるし上げる言動)」を捉えたもの。二つ目が「質問に質問で返す(例:「役に立つってなんですか?)」哲学っぽいもの。三つ目が質問が中立的な立場ではないということ(例:「役に立つかどうかを問うこと自体が優生思想や功利主義などの特定の立場からのものだ」を問題視する社会学っぽいものである。筆者はこの三つのパターンの何れもが論点をずらしたりぼかしたりして明確に返答することを避けている不毛なものだと考えているようである。

 そこで筆者が持ち出すのが三谷尚澄やマーサ・ヌスバウムらの立場であり、「箱の外に出て思考する能力」や批判的思考力や想像力の涵養が人文学の役割だということになる。例えば日本人とアメリカ人、韓国人やインド人など、それぞれ異なった背景や共同体出身の人々が一か月間ルームシェアをやったとしよう。それぞれの生活習慣の相違によって喧嘩になるかもしれないが、「箱に出て思考する能力」を涵養しておけば異なった背景や属性をもった人間を理解することに役立つかもしれない。批判的な想像力や思考力を身につけておけば、「当たり前」と思っていることを問い直す営みが実践されることで、民主主義がより健全に機能していくことに役立つかもしれない。筆者はこうした立場が「時代遅れで不利な戦略」になる可能性を認めた上で、こうした方向性を支持しているようである。

 

 私もこうした立場にだいたいは賛同する。どの程度の優先順位で、どれくらいのリソースを注ぎ込んで、という部分はとりあえず難しいので棚上げするとしても、文系の学問に求められるのは「どの方向に進むことがより望ましいのか」という判断能力を涵養する点に求められるものだろう。

 しかし、やはり棚上げした問題は絶対に返ってきてしまう。例えば先日、「高校数学で三角関数を教える必要などないのではないか」的な話が某議員から出て物議を醸したところだ。そして殆どの場合、三角関数の原理がどうなっているかについて、特に理解もせずに隠蔽されたまま業務をしている人も多いはずだ。

www.anlyznews.com

 例えば、私は別に交通誘導警備の仕事もしているのだが、現場の職人さんで三角関数をきっちり理解して使っている人は殆どいないだろう。絶対にいないわけじゃないだろうが、殆どの職人さんは素朴物理学の範疇において業務しているはずだ。*1上の記事から引用しよう。

藤巻氏が類比するように、内燃機関やモーターやタイヤの原理の知識は車の運転に必要ないし、日常的に運転している人々の多くは理解していない。電子レンジを使うのには、電場と双極子の知識は要らず、水分があるものが加熱されることと、金属を入れると火花が飛んで異常加熱して危ないことだけ知っておけば済む。

こういう原理の隠蔽は、学問の世界でもよく行われている。正規分布の導出に必要なガウス積分の公式の導出には平面座標を三角関数で表す極座標への基底変換が必要となるはずだが、検索した限りは今回の話で藤巻氏に指摘している人はいなかった。つまり、多くの人は三角関数を知らなくても、導出に三角関数が必要な正規分布の利用に困らない。逆に、三角関数の必要性を訴えるのに、三角関数が必須ではない話が紹介されている*2のだが、これも実際は三角関数が具体的にどういう役割を果たしているのか把握されていないことを示している。

現代社会において、原理は隠蔽され、その理解は委任されている。人が一生で学べることなど限られているわけで、これは賢いやり方だ。掛け算の順番を交換する前に、ペアノの公理から掛け算が可換であることを証明しないといけないとしたら、四則演算の利用者は激減してしまう。ケータイでQRコードを読み取る前に、有限ガロア体、リードソロモン符号を勉強するのも無理がある。委任と隠蔽化は現代社会を成立させるための方針である。

 真正面からこうした教育に関する優先順位やリソースの話は、真剣に考えるなら非常に難しい。「小説や古文、漢文がどう役に立つのか」という話に戻ってみるなら、なぜそれらが優先して教育されるべきなのかが問われると旗色が悪くなるのを感じる。僕ら教育屋としては、「それでも将来的に君のニーズとして必要になるかもしれないし、こういう教養が複雑な世界をみるときに必要な視点になってくれるかもしれないじゃん!」とどれだけ戦略的に不利で時代遅れなのだとしても説き続けるしかないのだろうなあ…と思う。

  

 

*1:こうした話をしているときに、「バカだな。三角関数がなかったら、建設現場の仕事なんてなかっただろ」と言い出すアレな人もいるのだが、三角関数が建設土木の現場で原理として理解されて使ってるかどうかの話をしているときに、そういう論点をずらした返答をするのは、まさにクリッツァー氏が不毛だと考えている戦術の一つであるように思う。

青識亜論の偽旗作戦について

 

togetter.com

 

 今日は久しぶりに「ネット論客」について話そう。正直、Twitterの中の話についてあれこれつらつらと考えて書くのは不毛の極みだと自覚しているので、貴重で有限な人生の時間を浪費してまで書くことかと自問自答した。青識亜論その人もそうだが、取り巻きのファンネルも含め、この連中と会話を交わすこと自体不毛だとわかっているからである。しかし、この人には色々と思うところがあったので、自分の人生を無駄にしているとわかった上で語ろうと思う。

 

 青識はこの件について、「思考実験」と言ってるそうだ。具体的には次の通りである。

 

 

 へーマジか。いやーそういう考え方もあるんですね。僕もvotomsアカウントが健在だったころ、綾野辻子だとかあの辺のヴィーガンなりすましアカウントがゴミみたいな言説をばら撒いていたのを目にしてて思ったんですけど、通常はこういうのは火のない所にガソリンをばら撒いて炎上させるマッチポンプってやつなんじゃないでしょうか?例えば青識さんはなりすましアカウントを用いて、特定のサークルさんの作品を取り上げて攻撃した「実績」がありますけど、これって現在のロシアがウクライナを含めた被侵略国家に対して行ってる偽旗作戦とニアイコールの言動じゃないんですかね。

 

 それでね。こういう言動の何が最悪なのかと言えば、こういうなりすまし行為はそれこそ分断を煽る行為なんですよ。例えば、いくらでも狂った言動をする仮想敵をつくることができてしまうし、なりすましなのかどうかを傍目からは区別することができないわけですよね。僕はフェミニストでもないし、あの人たちの言ってることを鵜呑みにしているわけでもないが、こういうアンフェアなやり方を「思考実験」だのとのたまうのは流石にお門違いとしか言いようがない。「思考実験」でいくらでも過激な仮想敵アカウントをつくって「議論」したとして、そこに生まれるのは徹底的な憎悪と排除の論理でしょう。

 

 当然、何をどう言おうが支持者は彼を擁護するんでしょう。僕が凍結された際も多くの支持者が青識擁護にやってきたし、きっとこれからも「公平無私な」彼の言動なら鵜呑みにしていくことでしょう。もう書いててばかばかしくなってきたのでこれで終わります。

 

リバタリアニズムの終焉――陰謀論に乗っかるロン・ポールとその支持者をみた雑感

 最近のウクライナ情勢で最も残念に思ったことは、少なくないリバタリアン陰謀論に傾倒していることでした。

 とりあえず以下のツイートをご覧ください。

 

  

 先日、ロシアは小児科産婦人科の病院を砲撃したわけですが、ロシア側はこの病院に関して「長い間使われておらず、ネオナチのグループによって占拠されていた」「写ってる妊婦は役者である」といった主張をしています。一方、BBCが丁寧にこの情報について事実と符合しないことを示している…それが概ねこのツイートの趣旨となります。

 さて、驚くべきことは、このような低劣なプロパガンダを本気で信じ込んでいるリバタリアンが少なからず散見されたということです。それは所謂「無政府資本主義」を支持してるリバタリアンの面々でした。例えばTwitterにいる代表的なアナルコキャピタリストの木村貴氏などは、ロシアのプロパガンダをそのまま鵜呑みにした主張を拡散しているのがわかります。

twitter.com

 

 以前からリバタリアン情報リテラシーは非常に怪しいと思ってきたわけですが、ここまで来ると言ってることの妥当性全てに疑問符が付されることは間違いないのではないでしょうか。彼らが金科玉条の如く崇めているロン・ポールも、現在は殆ど陰謀論者と変わらない主張を繰り返しており、言ってみれば耄碌爺さんの戯言としか言いようがないのではないかと思います。そもそもロシアのような独裁体制の強い国家の主張を本気で鵜呑みにしていることも理解不能なことですが、当人たちはそれでいて論理的に一貫しているつもりなのが非常に驚愕させられます。

 

 私としてはイデオロギーがここまで人間を狂わせるのかと悲しく思う次第です。

 G.K.チェスタトンは『正統とは何か』の中でこのように言っています。

気ちがいと議論してみたまえ。諸君が勝つ見込みはおそらく百に一つも無い。健全な判断には、様々な手かせ足かせがつきまとう。しかし狂人の精神にはそんなものにはお構いなしだから、それだけすばやく疾走できるのだ。ヒューマーの感覚とか、相手に対するいたわりだとか、あるいは経験の無言の重みなどに煩わされることがない。狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである(p.22)

 かつて私は、「リバタリアニズムとは人間としての感情に欠けている奴らが支持する思想なのだ」といった批判に強く反発していました。ライサンダー・スプーナーやH・スペンサーなど、侵略戦争奴隷制にも反対し、弱き者たちの人権のために闘ってきた先人もいるからです。

 しかしながら、最近の先鋭的なリバタリアンたちには嫌悪感を感じると共に、正気を失っているとも思えます。それは結局、自分たちの金科玉条としているイデオロギーに整合するようにしか物事を捉えようとしていないからではないでしょうか。

 いや、そもそもイデオロギーすらもないのかもしれません。彼らは要するに自分が気に入らない立場に対する「反」でしか主張を成り立たせられない存在だったのかもしれない。逆張りの快感に酔い、コモンセンスを無視して「真実」を追求した結果、自分にとって耳心地が良い情報しか信じられなくなった挙句に「狂人」になり果てた。現状の彼らを見るに、もうリバタリアニズムはあらゆる意味で終わりなのかもしれません。

 

(注)

ここ最近、更に酷くなったので元の記事を改題した。一部の人々を除き、リバタリアニズムは思想として完全に終わってしまったと思う。

青野さんがこんなことを言っていた。

まさにその通りだと思う。今やリバタリアンとはネトウヨの亜流みたいなものとして見做すのが妥当なのだろうと思う。もちろん、そうではない人もいるだろうが、少なくとも木村貴をはじめとして気が狂ってるとしか言いようがないリバタリアンが目立つようになったのは、リバタリアニズムが思想として正気を失いつつある兆候とみなすことができるのではないかと思う。

 

ウクライナへ義勇兵として志願すること、そして、エピソードを用いて持論を展開する行為についての私見

 お久しぶりです。最近は多忙を極めて読書メモがつけられていません。とはいえ、このままブログを放置するのもアレなので、ブログを刷新するついでに、最近のウクライナ情勢について自分が思うところを語りたいと思います。

 

 さて、私はこの記事を読みました。

 

mainichi.jp 

大使館から募集業務を委託された東京都内の企業関係者によると、1日夜までに約70人の志願の申し出があり、うち約50人は元自衛官だったという。かつてフランス外国人部隊に所属していた人も2人いた。

 ウクライナ側は従軍させる場合には報酬を支払うことを視野に入れるが、ツイッターでは「ボランティア」として募集。問い合わせの際に「日本にいても大して役に立たないが、何か役に立つことをしたい」などと「純粋な動機」(大使館関係者)を語る人が多かったという。

 

 実を言うと、ここ数日、私も応募するか迷っていました。それは様々な理由からです。同情心もあれば、自分の中にある野心的な功名心もあったと思いますが、色々と考えあぐねた結果、私は格安月給から捻出したお金を寄付するだけに留めるだけにしました。そう決めたのは、結局のところ「私は自分の今の生活を捨てられない」とはっきり理解したからです。「資格としてもっとできることがあるにもかかわらず、自分ができる最大限の貢献をしないのは偽善なのではないか」と今でも心中で誰かに囁かれています。そして正直なところ、実際に私の選択は偽善そのものだと思います。

 そうした罪悪感と自己嫌悪を交互に繰り返しながらも、それでも私は自分の今の日常を捨てるわけにはいかないし、今目指している目標を放り投げて他人を助けに行くのはあらゆる意味で間違っていると考えたわけです。臆病な選択であり、恥ずかしいことかもしれませんが、私は私の人生も大切である以上、利他的な協力もそこには劣位せざるを得ません。

 ウクライナへ志願した元自衛官の人たちは素晴らしいと個人的に思っています。とても私には真似できるものではないですし、殆どの人々にもできないでしょう。ただ、「日本にいても大して役に立たないが」と志願する元自衛官の発言を考えてみると、これはこの人が捨て鉢になってるのではないか、と思えなくもないのです。つまり、自分の人生を有意義なものだと思えていない、という点が志願の原動力になっている人が少なからずいるのではないか、ということです。

 元自衛官には除隊後、娑婆の日本社会に順応することが難しくなってしまう人がいると聞いたことがあります。実際に、私もそうだったかもしれません。刑務所に慣れた人が久しぶりに娑婆に出てみれば、全然適応できなくなってしまった、そんな話は枚挙にいとまがありません。そう考えてみると、こうした志願を手放しに称賛するのは、二重三重にも危ういことなのではないか、私はそう思うわけであります。

 

 話は変わりますが、ウクライナに関連してもう一つ気になることがありました。たまたま私は某ネット論客のアカウントがこんなことをつぶやいているのを目にしました。曰く、「ウクライナがああやって必死に戦ってるのは、お前たちが嫌悪している「男らしさ」や「愛国心」に駆られてのことだ」といった内容です。言ってみれば、左派やフェミニストに対する逆張り、冷笑としての発言です。

 私はこれ自体に批判があるわけではありません。実際にウクライナがあそこまで必死に奮闘できている理由は、何よりも祖国を想う精神や闘争的な男らしさに起因しているでしょう。ここには特に思うことはありません。逆張りや冷笑も、バーリンやミルが捉えた「寛容」を持ち出すなら、程度はあれどもアリな話でしょう。理解すれども、それは嘲笑や非難を一切しないという意味を含んでいるわけではないからです。

 ただ私はとんでもなくグロテスクだなと思いました。何がグロテスクなのかと言えば、現在進行形で繰り広げられている戦争を前にして、このように持論の正当性を展開し始める態度が、という点にあります。私にはどうも当事者意識が欠けた他人事だからこのような言動ができるのではないかと思うのであります。別に言ってることは間違いではないが、繰り出される表現の尻軽さがとにかく私には気持ち悪く感じるわけです。

 これは左派においても同じように感じる人がいます。例えば、社虫太郎という人です。彼はTwitterでロシアのプロパガンダを鵜呑みにしてウクライナ政府を責める言動を繰り返していますが、彼からも似たような気持ち悪さを感じ取れます。

 実在の事件を用いて持論の正当性を述べること、それが絶対に悪いとは私も思いません。しかし、そうした話を持ってくる場合、少なくとも言葉に慎重さが要求されるというのは良心的な問題なのではないかと私は考えます。何か鬼の首を取ったように嬉々としてこうやって語りだすのは、当事者となっている他人の人生について思いを馳せたことがないからこそなのだろうなと私は思います。

 

最後に、ウクライナへの支援先を明記してこの記事を締めたいと思います。それでは、ごきげんよう

 

 

 

 

 

ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』読書メモ①人間の本性を直視せよ

 第一章はピーター・シンガーが『現実的な左翼に進化する』において提唱したダーウィニアン・レフトの立場が紹介されている。

 

 シンガーはこの本において、マルクスの社会構築主義的な方法論(マルクスは人間本性を社会的関係の総和と論じている)を批判し、正確に人間本性を理解するにはダーウィンに鞍替えしなければならないと説いている。クリッツァー氏曰く、

左派の目標を正しく達成するためには正しい手段を考える必要があり、正しい手段を考えるためには問題の原因について正しく理解しなければならない。そして、人間の社会に存在する問題の原因を理解するためには、人間の本性についての正しい理解も不可欠だ。だからこそ、左派もマルクスからダーウィンに鞍替えしなければならないのである(p.29)

 となる。シンガーは「左派の本質」を「弱者の苦痛を和らげること」としており、左派が本当にそうした目標を達成したいならば、人間本性をよりよく理解することで現実的な解決策を採るべきだ。そうした問題意識がシンガー、そして筆者にもあるのだろう。ただし、筆者が一応指摘している通り、「弱者の苦痛を和らげること」が左派の本質とするシンガーのテーゼは広く共有されたものとは言えないし、「最大多数の最大幸福」や「すべての人の利益への平等な配慮」を目標とするシンガーの功利主義哲学の理念が強く反映されているから、そこにまず反発する左派も多そうである(筆者が言うように「目標を達成するための正しい手段を考えるうえでは、原因についての正しい理解が必要だ」という主張そのものは正論としか言いようがないのだが)。

 筆者は事実やデータを重視する左派の例として、公衆衛生学者のハンス・ロスリングや進化心理学者のスティーブン・ピンカーを例に出し、科学的な事実、生物学的な事実に則って分析し、課題解決を目指す彼らはシンガーの言う「左派の本質」に適っていると紹介している。一方で、多くの左派の間では未だにダーウィニズムは嫌悪の対象であるとして「左派のダーウィン嫌い」について取り上げている。シンガー曰く、その理由として、

  1. 歴史的にダーウィニズムは右派に積極的に取り上げられてきたこと、具体的にはロックフェラー2世やアンドリュー・カーネギーなどといった資産家により、自由放任主義を正当化する論拠として「適者生存」が導出された経緯
  2. 有害な遺伝子の拡散を予防するという名目で、福祉や医療費を削減して弱者を切り捨てる優生学的な社会政策が実際に実施されたり、主張されてきた背景
  3. マルクス主義的な「人がどうあるかを決めているのは意識ではなく、社会的な存在が意識を規定する」という社会構築主義的な人間本性理解

 といった事実をあげていた。シンガーは1と2の理由について、そもそもこれらは「自然主義的誤謬」(ある事実を規範的に「良い」と定義すること)であり、ダーウィニアン・レフトの心構えとして「そういう本性である」から「正しい」と決して推論しないように注意している。

 3つ目の理由については、ある種の左派の人たちがよくやっていることである。進化論がイデオロギー的だと批判しながら、実際はそう批判している人たちが最もイデオロギーにまみれているというものだ(ここではエンゲルスマルクス社会生物学論争におけるリチャード・ルウォンティンやスティーブン・グールド、そして現代においてロスリングやピンカーの主張を批判する人々が挙げられていた)。

「一見すると中立で客観的な科学的知見であっても、その知見が主張される背景には、政治的な意図や差別的な思想が存在する」といった批判が的を射ている場合もあるだろう。しかし、左派の人たちは「社会が意識を決定する」というマルクス主義的な考え方や、「完全無欠な世の中」という自分たちの理想にとって都合の悪い知見から目を逸らすために、そのような知見を唱えている人たちの議論からことさらに悪意を発見して「悪い連中の言うことだから耳を傾けなくていいのだ」と自分たちを納得させている、としか考えられないような事例も多い(pp.33-34)

 これは左派だけではなく、多くの人に突き刺さる文章だと思った(もちろん、わたしにも)。人は往々にして部族主義的な思考に陥りやすく、敵か味方かの区別をしがちである。だから、自分たちに都合が悪い情報を見聞した際に、それを主張する人間の利害関係を探ったりすることも多い。もちろん、健康に関する研究なんかだと、そのスポンサーの意向を強く汲んでいるような場合も多いので、決してそれ自体が悪いなどとは言えないのだが(JTがスポンサーになっている場合、タバコの有害性に関する研究が価値中立的にできるかと言えば微妙に思える)、だとしてもこうした部族主義的な思考法や利害を探るやり方は議論を停滞させるだけではなく、破綻させてしまう場合の方が多いように思える。仮に自分にとって都合の悪い事実を突きつけられたとしても、そこでやるべきなのは更にそれを反証する証拠を突きつけてやることにある。そこで相手の悪意や利害関係を探る意味は(よほどに悪質な相手ならまだしも)、基本的には無いと考えるべきなのだろう。

 

 第1章はここから進化論的な知見から人間の協力行動を探求する意義を説き、不都合な真実に対して如何に対処すべきなのかを説明している。これはダーウィニアン・レフトを目指す人だけではなくとも、多くの人が読むべきものだと思う。私は相当に昔はアナルコ・キャピタリズム(政府を廃止し、市場にすべて委ねるべきとする、リバタリアニズムの中でも最も極端な思想)を支持していたのだが、イデオロギーに憑りつかれていると、まともに情報を取捨選択するリテラシーすらも欠如してしまうし、相手の意見に耳を傾けるということも難しくなってしまうからである。そして、筆者もシンガーも言うように、問題を本当に解決したいのならば、正確な事実に基づいて問題を分析し、その処方箋を考えるべきなのだ。これは左翼であるなら、ではなく、建設的に問題解決を考えたい人なら、誰もがそうあるべき話なのである(こうした問題意識は、ジョシュア・D・グリーンの『モラル・トライブズ』とも関連していると思う)

 

 

 

 

 

ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』読書メモ ⓪まえがき

 

 

 

 前々からこのブログでも何度か引用しているが、「道徳的動物日記」のデビット・ライス氏が晶文社より一冊の本を出版した。その名も『21世紀の道徳』。ふれこみを読むと色々と面白そうな本だったので、今度から定期的にこの本に関した読書メモと、個人的な感想を書いていきたい。

 実は現在の私は教職課程にあり、警備員として勤務する傍ら、某学習塾・予備校に務めているのだが、もし内容的に問題がないならば、これから巣立つ生徒にも進学後の教本として推奨していこうかなと思っている。

 では、はじめに「まえがき」からやっていく(本当は他の章もまとめてメモっていきたかったのだが、トリプルワーカーの通信大学生としてはそこまで時間に余裕がないので、細々と分割して記事を出していこうと思う)

 

 「まえがき」

この本のなかでは、常識はずれな主張も、常識通りの主張も、おおむね同じような考え方から導き出されている。それは、なんらかの事実についてのできるだけ正しい知識に基づきながら、ものごとの意味や価値について論理的に思考することだ。これこそが、わたしにとっての「哲学的思考」である。いまも昔も、多くの哲学者はこのような思考を目指して、実践してきた(そうでない哲学者もちらほらいるようだけれど)。そして、事実についての正確な知識と論理的な思考は、常識通りでつまらない答えにたどりつくこともあれば、わたしたちの常識を問い直す意外な回答を導きだすこともあるのだ。(p.5) 

 この部分を読んでいて、私は伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(2014)ちくま新書の「ほどよい懐疑主義」を想起した。確か筆者も伊勢田先生の本を推奨していたと思うので、クリティカルシンキングの方法の土台はここにあるのだろう。こうしたクリティカルシンキングの姿勢は、とんでもなくドグマスティックで極端な考えを退けることにも役立つだろうし、それまで常識だと思われてたことについて問い直しにも役立つ。

 ネットだと往々にして前者と後者の酷さが目立つが、例えば前者なら「絶対的な悪」みたいなものがあって、それに対する支配を打破すれば世界はもっと良くなる…的な夢物語が真剣な顔で語られていることがある。(アナルコキャピタリストを含む)アナキストなり右翼・左翼・フェミニストetc...と界隈が違うだけでどこもかしこも似たような状況だ。私も一時期そうした思想に触れていたので、自省しなければならないかもしれない(今でも穏当なリバタリアニズムを支持しているけれども)。一方、後者は後者で酷い。真剣に捉えられるべき問題に関して、現状追認を是としているだけの自称リアリストや冷笑を浴びせかけるだけしか芸がない冷笑主義者全般の知的態度は目に余るものがある。それでいて当人たちは自身が論理的であると思っているのが極めて痛々しい。気候変動の問題なり、人権の問題なり、動物の問題なり、真剣に論理的に考えることはいくらでもできるが、そもそもそうしたことを「考えたくない」だけの甘えた人間がTwitterなんかでは当然にバズっていたりする。そうした両者の状況に対して、筆者のクリティカルシンキングの在り方は一種の解毒剤になるだろう。

 では、次回から本格的に第1章からはじめていきたい。