接近から流します

右から左に流す日々

眞子さんの主体性

 ラジオでも話した内容だが、最近の眞子さん&小室問題について簡単に触れておきたい。

 私の立場はこうだ。小室は人間としても大いに問題のある人間であるように思えるし、最近に俄かに巷を騒がしている職務経歴書の偽造問題が真だとするならば、この男との結婚は恐らく失敗するものだと思う。小さな嘘をつくのは誰にでもあり得るが、人間の根幹的な部分で嘘をつくのは人間として信用できないだろう。

 

 ただし、私はそれでも眞子さんの結婚について反対しない。それは、眞子さんの主体性を否定している押し付けがましい価値観にウンザリしているからだ。皇族も一人の人間である。神ではあり得ないし、失敗を犯す自由を持つ。彼女が一人の人間として成長するためには、あらゆる経験が必要であり、それは失敗を犯す経験も含むものだ。仮に今回の結婚が失敗するとしても、それは彼女を大きく成長させるものであり、その経験を奪う権利こそ誰にもない。

 

 この件に関連して結婚を声高に主張している人間は、誰しもが眞子さんの主体性を重んじていない。非常に軽蔑すべき存在である。そもそも個人の結婚に対して文句をつけること自体が大きなお世話に違いないが、なぜ臣民風情が皇族の結婚に意見できるのか、それこそ分を弁えない愚かな行為としか言いようがあるまい。かつて福田恒存象徴天皇制について明治憲法下の君主制よりも残酷な制度だと論じたが、私もこれには同意見だ。皇族は天皇と同一ではないが、それに付随してあらゆる意味で清廉潔白な人格や立ち振る舞いを要求される。国民など多様で、それこそ俗物が溢れかえっているにもかかわらず、模範的な存在としてすべてを制約される。現行の天皇制は、そういった意味においても許容すべきではない制度と結論せざるを得ない。

 

 リバタリアンである私の見解はこうだ。天皇制を非制度化すべきである。そもそも皇族のことは皇族で決めさせるべきだ。我々が家族で身内のことを色々決めていることと同様に、皇族にもその自律権を認めるのが筋である。そのためには、公的な制度としての天皇制をやめ、純然たる宗教組織として立ち還らせるべきである。