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右から左に流す日々

体育会系との付き合い方

https://archive.vn/2020.10.20-144653/https://cakes.mu/posts/32035

cakes.mu

 ツイッターでとある男の記事が非難轟々だったのをみた。

 元記事の内容を読んだとき、私は特に次の文章について特に注目した。

 

ぼくの経験上ですけど、そんな状況は5日が限界。ぼくは20代のころにCM撮影の現場で20時間労働を5日間連続で経験したことがありますけど、4日目にフラッと気を失いそうになって、5日目に寝坊しました。写真の撮影の世界ではここまで過酷な条件ってほぼないんだけど、CM撮影の世界って狂ってるくらい過酷なんですよ。
本当に数年間、毎日深夜まで休日がなく働いたら、過労死をするか自殺をするか体調を崩すよね。睡眠がとれないと思考回路はまともに機能しないし、帰宅して寝ているあなたを叩き起こす気力も、あなたを引きずって実家に連れて行く気力もないよ。

  

 こうした他人の労苦を平然と侮辱する傾向は、特に体育会系の人種に共通した特徴だと私は考えている。彼らは基本的に他人の苦労を認めることが少ない。「自分はこれだけ忍耐できたのだから、他人も同じ堪えられるものだろうし、それが普通じゃないか。大袈裟に自分の苦労を訴えるなよ」と他人をこき下ろすことが好きだし、理不尽を他人に強要して平気なくらいにモラル感覚が麻痺している人種である。

 例えばこの記事を読んでいる人の中には消防団による苛烈なアルハラ話を耳にした人がいるかもしれないが、丸山眞男が唱えた「抑圧の移譲」概念が示すように、彼らは自分がなされてきた抑圧的経験を自分より下の存在に移譲することが多い。根本的に個人の尊厳や人権という概念を理解しようとしないしバカにしてるのが普通なので、他人に暴力を振るうことが当たり前になっている。

超国家主義の論理と心理 他八篇 (岩波文庫)

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  • 作者:丸山 眞男
  • 発売日: 2015/02/18
  • メディア: 文庫
 

  そして、世の中の人間は体育会系が大好きだ。何よりも権威や秩序を重視し、既存の社会規範を強化・再生産に貢献してくれる彼らの存在は、いわゆる「老害」に大人気である。ここで言う「老害」とは、おおよそ昭和年代の美徳、パワハラモラハラ・セクハラなどのハラスメントを寧ろ必要なものだと感じてる連中を指している。例えば、「今の若者は少し言われたくらいでダメになる。甘えている」と平然と言い放つ連中はまさにそうだ。

 もちろん、確かにそういう若者もいるのだろう。ある程度は堪える度量が必要なのは私も同意する。人生は混沌に満ちていて、とても苦痛が多いわけだし、そういうもの全てから逃げることはできない。何より、逃げ続ければ必ず自分の惨めさに嘆くようなときが来てしまう。それは長期的な視点から言っても当人のためにはならない。そういう意味で、私はジョーダン・ピーターソンの提唱する12のルールにかなり同意的である。

 

 従って、「男(女)らしさから解放されよう」といった主張には懐疑的にならざるを得ない。現行のジェンダーが有害さを含むのは否定する気はないが、現実にジェンダーロールから降りた場合、かなり強烈なリスクや攻撃に晒されてより惨めになってしまう人もいるだろうからだ。

 

 冒頭でも触れたように世間一般の人間は体育会系が大好きだ。彼らの対人方法は極めて差別的で、上か下かしかない。消防団でも刑務官でも警察官でも良いが、こうした業の人間は自分より弱いと思った相手にはとことん舐めた態度でかかってくるものだ。和を尊び、愛想がよく、相手と協調したり共感しようとする人のいい貴方は、真っ先に体育会系人種の餌食となることだろう。森の中でひっそりと生きるうさぎのように誰にも害を与えようとしない貴方は、しかしそうであるが故に体育会系人種にとって頗る都合がいい存在となるのだ。

 実は私自身、そういうところで苦労してきたところがある。意外に思われるかもしれないが、自衛官だった頃は特にそうでもなかったとし、結構周囲から可愛がられた記憶がある。当時は夜学に通いながらという部分で、それなりに配慮されていたのかもしれないが、私が自衛隊をかなり贔屓目にみているのは、体育会系の代名詞とも言われる軍隊組織である筈の場所が、今まで経験してきた職場環境の中で最も優れていたし、面倒見の良い人たちばかりだったからである。が、他の職場はまさに最低だった。私はなで肩の着痩せするタイプで、顔が塩系なので、とにかくオラオラしてるタイプから標的にされることが多かったと記憶している。対立とか人と争うのが好きじゃないので、基本的に理不尽な要求や指導にも我慢するようにしていた。報酬原理から言って、自分が好意で返せば相手も好意で返してくれるだろうと素朴に思っていたところもあった。しかし、体育会系にそのような報酬原理は通用しないのだ。それは直近で勤務していた刑務官だったときに思い知った。奴らは頭を下げれば下げるほどに増長し、とにかく要求をでかくしてくる。全く教えてもいないことで怒鳴りつけたり、自分と全く無関係で先輩がやらかしたことでも責任を擦りつけてくる。指導者の無能さは免責され、後輩の出来が悪いのはついて来れない当人が全て悪いという狂った状況を形成する。これが体育会系人種の常であり、そういう人間に対しては、譲歩したり謙遜していくのは明らかに命とりとなってしまうのである。普通であれば会話によるコミュニケーションで相互に理解をしようと努めるのが健全な人間関係だが、奴らは言葉を用いたコミュニケーションをしようとはしない。「こいつは自分より上なのか下なのか?」という身分的コミュニケーションの判断基準以外持っていないのだ。だから、そういう人間ばかりの環境においては、人の良さを発揮して自分を小さく見せようとすればするほど奴らに付け込まれる原因となってしまうのである。

 

 では、こうした連中にはどう対応すべきか。ずっと良いように使われて生きるというのも確かにある。そういう生き方を無理やり否定するつもりはないし、それも一つの個人の選択だろうと思う。愛想笑いを浮かべながら、彼らの理不尽な要求に心を殺して忠実にやっていくのも、許容できるなら別に悪いことではない。

 しかし、それはあまりにも惨めで苦痛に負けてしまうかもしれない。そんな理不尽さに堪えて生きていくのは、貴方にとって長期的にも良くないことではないか?一度はその愛想の良さや人の良さを捨ててみたらいいのではないか?まずはその第一歩として、ピーターソンが第一のルールに掲げている通り、背筋を伸ばして胸を張ってみたらどうだろう?

 ピーターソンが著書で書いているように、我々はロブスターと基本的な部分で共通している。勝者は常に自分を強調し、敗者はしょげた格好となるわけだ。ここから導ける話は一つ、つまり体育会系と交流する場合、そもそも自分を弱くみせてはならないということだ。彼らと接する際は「Don't tread on me(俺様を舐めるな)」という態度を常に維持し続けなければならない。必要ならば徹底的にブチ切れることもやったほうが良い。怒りは極めて大事な意思表示であり、連中の舐めた態度を改めさせる方法の一つでもある。

キレる!(小学館新書)

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  世の中、物分りの良い人間ばかりだったなら、平和的に話をすれば終わりで良いのかもしれない。しかし、福田恆存やピーターソンが言っているように、世の中そんなに優しい人ばかりではないのが現実で、体育会系を筆頭に貴方を食い物にしようと狙っている人間が多いことが否定し難い実態なのだ。そうしたカオスに満ちた世界で生き抜くには、結局の所として自分で自分を強く変えていくしかないのだ。