接近から流します

右から左に流す日々

刑務官は人間の屑である②

 はじめに

 前回に引き続き、刑務官の劣悪さについて書いていこうと思う。国家公務員だからと安易にこの公務員になろうとする犠牲者が出ないためだ。また、本当に受刑者の矯正改善がしたいと思ってるような人は、そもそも刑務官になるべきではないと思う。刑務官にそのような使命感は不要だし、実際に私が徹底的に挫折させられたのはそこだったからである。それはそもそも刑務所のシステムが矯正改善に全く適さない事を指しているわけだが、これについては後述していこうと思う。

 ちなみに、この記事は私の怒りと恨みを込めたものなので、公平性のある記述とは言えないかもしれない。しかし、こうした体験をしてきたという私の視点はきっと意義深いものだと信じているので、その点を踏まえて読んでいただきたい。

 

 矯正改善なんて綺麗事

 これは前回にも書いた私たちを指導する警備主任が言い放った言葉だ。「矯正改善などというのは綺麗事で、監視が俺たちの仕事。奴らを外に出さないことが最重要任務」という話だった。

 私が勤務していた刑務所というのは分類で言えばB刑務所と呼ばれるもので、執行刑期が10年未満で犯罪傾向が進んでいる人間を収容する場所だった。つまり累犯を相手にする刑務所だ。そんな訳で、そもそも矯正改善などハナから考えていないし、期待するだけ無駄だということを最初に教わるわけだ。

 これは度々色々な人から教わる。彼らが特に危惧しているのは刑務官と受刑者が親密な関係になってしまい、籠絡されてしまうことだった。籠絡事故とは、例えば受刑者によかれと思って(規則違反となる)便宜を図ったら、その要求がどんどんエスカレートしてしまい、最終的には携帯やタバコまで使わせてしまうような事例を指す。だから多くの刑務官は受刑者を奴らと呼び、あたかも普通の人間ではないように言うわけである。何度も「どんなに気がいい人間に思えても、奴らは一度は犯罪を犯した人間。絶対に心を許すな」と度々言われたものだった。

 しかし、私は岡本茂樹先生の本を読んでいたこともあり、そもそもそうした日本の刑務所のシステムに問題があるのでは?と思っていた。刑務所は犯罪を犯した人間がいく場所だから、とにかく厳しくすべきで、自由やゆとりのある空間であってはならない、と多くの人が思っている。だから刑務官も受刑者と個人的な繋がりを持ってはいけないし、徹底的に厳しくやらなければならないのだとなるわけだ。しかし、そのやり方は果てしなく非人間的だ。そんな非人間的な環境で矯正改善なんてそもそもできるわけがないのではないか。最初から人間扱いをしていない場所で、どう人間として生きることを教えられるのか私には謎である。

 

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

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  • 作者:岡本 茂樹
  • 発売日: 2013/05/17
  • メディア: 単行本
 

 

 

凶悪犯罪者こそ更生します(新潮新書)

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  ノルウエーの刑務所も一時期は厳罰傾向が高かったらしい。しかし、ニルス・クリスティをはじめとした刑事法学者の牽引もあり、現在は修復的司法を前提とした上で囚人を人間的に扱う矯正施設となっているそうだ。実際にノルウエーの刑務所は再犯率が低いことでも有名だ。

 岡本茂樹の本にも書いてあったし、映画『プリズン・サークル』でも同様の描写があるが、犯罪者は加害者であるのと同時に被害者でもある場合が多い。

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  彼らはそもそも苦しめられてきたが故に犯罪に走る。にもかかわらず、社会は彼らを非人間的に扱い、出所後もスティグマを貼られてろくに人間的な扱いを受けることはない。だから、日本の再犯率が高いままなのは、決して個人の自己責任の問題だけではあり得ないと私は思っている。寧ろ、刑務所はそうした人間を再生産し続ける最悪の場所なのではないだろうか。

 

 

 「こいつらは動物以下」だと言われる受刑者たち

 「さて、動物への餌やりだ」と看守部長が言った。研修中、我々は何度も保護室に立会したが、そこは本当に酷かった。自分の糞便を食べたり、それで壁に書いたり、一日中大声騒音を出し続けていたり、まあはっきり言えば精神に何らかの異常を来している受刑者が入っていたりするわけだ。薬物のやりすぎで精神異常を併発している人が殆どらしいが、そもそもこうなる以前に適切な薬物治療をしっかりすべきだったのではないかと私は疑問に思わざるを得ない。

 日本の司法では薬物の所持・使用は犯罪だが、こうした薬物の犯罪化は、依存症の人間を依存症治療のノウハウが蓄積されていない刑務所に送り込むだけで、全く合理的な意味はないと思う。田代まさしがそうであるように、本人の意思ではやめられないのが薬物の怖さなのだし、刑務所に何度ぶち込もうが薬物をやめさせられるわけではないのである。

 まして保護室に入るまでになってしまったらもうどうにもできない。ここの受刑者は(Veganとしてはあまりこの表現は使いたくはないが)完全に動物と同等の扱いを受けるわけだ。もちろん、保護室の糞便を処理する業務にあたっている警備隊の人間は大変だろうし、業務のキツさは世間一般的に同情に値するだろうが、新拝命の刑務官相手に受刑者を「動物」扱いさせるような教育を行うのは果たして正しいと言えるのか?本来ならば、彼らは適切な環境で治療を受けたほうがいい存在にもかかわらず、非人間的に扱うことを正当化する発言を平然と行う神経は理解不能である。

 他にも、保護室に入るまでにはならないが、自分の行為について善悪の区別がついているのかわからない知的障害者の受刑者が普通にいたりする。これはまさに日本の司法が知的障害者に対応しきれていない証左としか言いようがないが、刑務官は(本来なら真っ当な福祉サービスを受けるべき彼らに対して)バカ扱いして嘲笑するわけである。正直、私にはこれが一番精神的にキツかった。刑務所の規則は滅茶苦茶きめ細かいため、就寝時間であるべき時間内で(ストレッチを含む)運動や読書をしていたら反則行為となってしまうわけだが、知的障害を持った受刑者にはその意味が理解できない人がいるのだ。Tという受刑者は本を読んでいて、没収された。その本は詩集だったと記憶している。

 私を指導していた高卒上がりでまだ未成年者の刑務官は「こいつはバカだから反則で懲罰かけても意味がないんすよ。だから毎回こうやって本をとりあげてるんです」と言っていた。

 私には、そもそも取り上げる意味すら理解できなかった。本来、反則行為として処分すべきなのにそうしないのなら、取り上げようが取り上げまいが何ら規則違反であるという意味は変わらない。これは秩序維持を名目とした障害者苛めなのではないかと私は強く思った。

 この時点で、私には刑務官を継続するインセンティブが殆どなくなっていったのだった。他、一気にやる気がなくなった教育システムの酷さについては、後日まとまった記事を再び出そうと思う。今回はここまでだ。

 これを読んだ人、どうかこれ以上厳罰を望まないで欲しい。貴方の犯罪に対する怒りは尤もだが、解決策は間違っていることを自覚して欲しい。厳罰を望めば望むほど、本来必要なケアが滞り、結果的に犯罪を再生産することにつながってしまうことをよく理解してほしい。