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右から左に流す日々

ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』読書メモ ⓪まえがき

 

 

 

 前々からこのブログでも何度か引用しているが、「道徳的動物日記」のデビット・ライス氏が晶文社より一冊の本を出版した。その名も『21世紀の道徳』。ふれこみを読むと色々と面白そうな本だったので、今度から定期的にこの本に関した読書メモと、個人的な感想を書いていきたい。

 実は現在の私は教職課程にあり、警備員として勤務する傍ら、某学習塾・予備校に務めているのだが、もし内容的に問題がないならば、これから巣立つ生徒にも進学後の教本として推奨していこうかなと思っている。

 では、はじめに「まえがき」からやっていく(本当は他の章もまとめてメモっていきたかったのだが、トリプルワーカーの通信大学生としてはそこまで時間に余裕がないので、細々と分割して記事を出していこうと思う)

 

 「まえがき」

この本のなかでは、常識はずれな主張も、常識通りの主張も、おおむね同じような考え方から導き出されている。それは、なんらかの事実についてのできるだけ正しい知識に基づきながら、ものごとの意味や価値について論理的に思考することだ。これこそが、わたしにとっての「哲学的思考」である。いまも昔も、多くの哲学者はこのような思考を目指して、実践してきた(そうでない哲学者もちらほらいるようだけれど)。そして、事実についての正確な知識と論理的な思考は、常識通りでつまらない答えにたどりつくこともあれば、わたしたちの常識を問い直す意外な回答を導きだすこともあるのだ。(p.5) 

 この部分を読んでいて、私は伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(2014)ちくま新書の「ほどよい懐疑主義」を想起した。確か筆者も伊勢田先生の本を推奨していたと思うので、クリティカルシンキングの方法の土台はここにあるのだろう。こうしたクリティカルシンキングの姿勢は、とんでもなくドグマスティックで極端な考えを退けることにも役立つだろうし、それまで常識だと思われてたことについて問い直しにも役立つ。

 ネットだと往々にして前者と後者の酷さが目立つが、例えば前者なら「絶対的な悪」みたいなものがあって、それに対する支配を打破すれば世界はもっと良くなる…的な夢物語が真剣な顔で語られていることがある。(アナルコキャピタリストを含む)アナキストなり右翼・左翼・フェミニストetc...と界隈が違うだけでどこもかしこも似たような状況だ。私も一時期そうした思想に触れていたので、自省しなければならないかもしれない(今でも穏当なリバタリアニズムを支持しているけれども)。一方、後者は後者で酷い。真剣に捉えられるべき問題に関して、現状追認を是としているだけの自称リアリストや冷笑を浴びせかけるだけしか芸がない冷笑主義者全般の知的態度は目に余るものがある。それでいて当人たちは自身が論理的であると思っているのが極めて痛々しい。気候変動の問題なり、人権の問題なり、動物の問題なり、真剣に論理的に考えることはいくらでもできるが、そもそもそうしたことを「考えたくない」だけの甘えた人間がTwitterなんかでは当然にバズっていたりする。そうした両者の状況に対して、筆者のクリティカルシンキングの在り方は一種の解毒剤になるだろう。

 では、次回から本格的に第1章からはじめていきたい。