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リバタリアニズムと動物倫理に関する私見

  今回の記事は過去に私が書いたものを再構成したものだ.私はリバタリアンであり,同時にveganである.しかし,この関係性について纏まった議論はあまり見かけたことがなく,*1日本ではveganを冷ややかに見るリバタリアンも少なくない。しかし、動物への危害を否定するという意味では,そうまで躍起になって否定する話ではないというのが私の考えである.

 

 この記事では最初にリバタリアニズムとはそもそも何なのかを簡単に説明したあと,リバタリアニズムが動物倫理の世界で何が言えそうなのかについて簡単な所見を述べる.

 Ⅰ.リバタリアニズムとは何なのか

 1.概説

 リバタリアニズムとは,日本語訳にした場合に「完全自由主義」「自由至上主義」等と表記される事がある思想の事を指す.ごく単純にその思想の内容を説明すると,個人の人格的自由と経済的自由を一体として捉え,その自由の最大化を試みる思想だという事になる.日本では数少ないリバタリアン法哲学者である森村進によれば,「経済的自由は人身の自由や表現の自由などと同様,個人的自由の不可欠の一部である」という事になる.この思想の方法論は大きく3つにわかれ,正当化する政府の規模も論者によって異なる.以下羅列の上,簡単な説明を加える.更に詳しい説明は森村進『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』(講談社現代新書 2015を拝読願いたい.

 

リバタリアニズム読本

リバタリアニズム読本

  • 作者:森村 進
  • 発売日: 2005/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 【自由の正当化にかかる方法論】

 a.自然権論アプローチ…基本的な自由の権利(自己所有権)から個人の自由を正当化する.

 b.帰結主義アプローチ…自由を尊重する社会の方が人々は幸福になるという考えから個人の自由を正当化する.

 c.契約論アプローチ…理性的な人々であれば,リバタリアン社会に合意するだろうという考えから個人の自由を正当化する.

 【正当化する政府の規模】

 ①無政府資本主義…国家の存在価値を認めない(国家の廃止).

 ②最小国家主義…国家の役割を国防・裁判・治安・その他の公共財の供給(あるいはその一部)だけに限定する.

 ③古典的自由主義…②以外にも必要最低限の福祉行政だけは認める.

 

 この思想は本来自由主義として表現されるべきものであるが,現在この言葉は一般的に社会民主主義的な思想的立場を指す事が多い.M.フリードマンの説明を引用しよう.

 

 「一九世紀末から,とくに一九三〇年以降,自由主義あるいはリベラルという言葉は,ずいぶん違った意味合いを帯びるようになった.とりわけ経済政策について,それが言える.自由よりも福祉や平等が重視されるようになり,めざす目標を達成するのに,民間の自主的な取り組みよりも国家に頼ろうとするようになった.一九世紀の自由主義者は,自由の拡大こそ福祉と平等を実現する効率的な手段だと考えたが,二〇世紀の自由主義者は,福祉と平等が自由の前提条件であり,自由に代わり得るとさえ考えている.そして福祉と平等の名の下に,国家の干渉と温情主義(paternalism)の復活を支持するようになった.しかしこれは,一九世紀の古典的自由主義者が敵視したものにほかならない」

ミルトン・フリードマン(村井章子訳)『資本主義と自由』(日経BPラシックス 2008)p.30

  

 

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

 

 

 フリードマンが指摘したように,日本でもリベラルを自認する人の多くは自由よりも福祉や平等を重視する傾向がある.不思議な事に,日本共産党の政治家ですらリベラル派を名乗る事があるし,リベラルという言葉が指す意味に混乱がみえるようにも考えられるが,A.スミスから連綿と続いてきた古典的な自由主義を自認する人は決して多くはないし,使用される事も少ない(その代わり,曖昧な意味のまま敵対論者を批判する為に用いられる新自由主義というネーミングは往々にして使用される).そのため,単に自由主義と言うだけではどういう内容なのか不明瞭になる場合もあるため,本稿の中では特別に断りを入れない限りはリバタリアニズムという名称で統一する.

 

 2リバタリアニズムの主張する自由とは

  「本書のテーマは,いわゆる意志の自由ではない.本書で論じるのは,誤解されやすい哲学用語でいう必然にたいしての意志の自由ではなく,市民的な自由,社会的な自由についてである.逆にいえば,個人にたいして社会が正当に行使できる権力の性質,およびその限界について論じたい」J.Sミル(斎藤悦則『自由論』(光文社古典文庫 2012)p.12

 「諸個人は権利をもっており,個人に対してどのような人や集団も(個人の権利を侵害することなしには)行いえないことがある.この権利は強力かつ広範なものであって,それは,国家とその官吏たちがなしうること――が仮にあるとすればそれ――は何かという問題を提起する.個人の権利は国家にどの程度の活動領域を残すものであるか.本書の中心的関心は,国家の本質,適正な国家の機能,国家の正当化(それがあるなら)にあり,研究の過程で広い範囲の多様な主題がからみ合ってくることになる」ロバート・ノージック嶋津格訳)『国家・アナーキーユートピア』(木鐸社 2010)序i

  

 

自由論 (岩波文庫)

自由論 (岩波文庫)

  • 作者:ミル,J.S.
  • 発売日: 2020/03/17
  • メディア: 文庫
 

 

 上記の文章には共通項がある.それは正当化可能な権力と,その行使の限界について論じようとする点だ.リバタリアニズムとは政治哲学に他ならず,哲学上の認識論と関係がない事であり,まして人生哲学であるわけでもない.この点がよく誤解を受けやすい事であるが,重要な事なので念のために強調しておくと,リバタリアニズムとは政府の正当性の有無やその限界について規定し,個人の法的な自由がどこまで可能かを論ずるものなのである.決して人生論や哲学上の自由意志論に関して議論している訳ではない.

 そして,ここで議論される個人の法的な自由についても注意を払う必要がある.リバタリアニズムの主張する自由とは,冒頭で登場したJ.S.ミルの次の言葉に集約される.

 

 

「本書の目的は,きわめてシンプルな原則を明示することにある.社会が個人に干渉する場合,その手段が法律による刑罰という物理的な力であれ,世論という心理的な圧迫であれ,とにかく強制と統制のかたちでかかわるときに,そのかかわり方の当否を絶対的に左右するひとつの原理があることを示したい.その原理とは,人間が個人としてであれ集団としてであれ,ほかの人間の行動の自由に干渉が正当化されるのは,自衛のためである場合に限られるということである」J.Sミル(斎藤悦則『自由論』(光文社古典文庫 2012)p.29

 

 これは他者危害禁止原則と呼ばれる重要な概念である.すなわち,個人は他者に危害を与えない限りは,自由に行為が法制度上において保証されなければならないとする原理原則であり,リバタリアニズムが主張する自由はこの原理を中心に据えた消極的自由と呼ばれるものなのだ.従って,他者に対して必然的に危害を加えるだろう殺人・強盗・強姦等を正当化する訳ではない.

 

 3.政府と社会の峻別

 

 ここからよく批判を受けがちなのは次のようなケースだ.例えば世の中には性的な商売(いわゆる売春)が存在する.リバタリアニズムの原則からは,売春の当事者達はそれぞれの同意に従って金銭と性的サービスを交換するわけであるから,特に他者に危害を加えていない限りにおいてこれを犯罪化するのは許容されないと考えられる.これをもって,ある批判者は「売春を許容するのは道徳的に好ましくない」と言われる事がある.批判者の念頭には,恐らく健全な性道徳的信念があるに違いないが,これは制度的に正当化できる信念だろうか.もし自然権論に立つリバタリアンであるならば,自己所有権の範囲内に収まる自由な自由な経済活動だと考えるだろうし,契約論に立つ場合も互いの合意に則っている限り自由に行為できるべきだと考えるだろう.帰結主義に立つ場合であれば,売春のような行為を政府が暴力をもって規制する帰結に関心があるはずだ(そして恐らくは規制しない場合と規制する場合のメリットやデメリットを挙げて,比較的に前者のメリットを重視するだろうと考えられる).

 こうしたアプローチの相違に関して違いはあるものの,リバタリアニズムが共通して峻別しているだろう一つの考え方をここで紹介しよう.そもそも我々の社会生活をここで思い出していただきたい.世の中には挨拶もしない愛想のない人もいるだろう.そういう人に対して我々は道徳的な意味で嫌悪感を持つわけだが,だからといって彼を刑務所に送って監禁する事を正当化できるだろうか.それはないだろう.通常はそういう人と接する事を避けたりするだろうし,その周囲の人々はきっと彼を軽蔑したり非難するだろう.公権力による強制を用いなくとも,我々の社会規範によって対応可能である部分は多いはずである.何より,誰かが売春をしているからと言って,全員が売春をし始めるわけではなく,そして全員が売春をすべきだ,と言っているわけでもない.ハイエクが言ったように,人はルールに従う動物であり,法律以外の社会規範を遵守する事ができる動物だ.トマス・ペインは次のように言っている.

 

 

「人類のあいだに広く行われている秩序の大部分は,政府の生んだ結果ではない.それは起源を社会の諸原理と人間の本質との中に持つものである.政府に先立って存在し,政府という形式が廃止されてもなお存在し続けるであろう.人間相互間に,また文明社会の各部分のあいだに存在する相互依存と互恵的利害関係とは,その社会を結び合わせるかの偉大な連鎖を作り出す」トマス・ペイン(西川正身訳)『人間の権利』(岩波文庫 2011)p.212

 

 

人間の権利 (岩波文庫 白 106-2)

人間の権利 (岩波文庫 白 106-2)

 

 

 これは決して根拠の無い議論ではない.ハイエクは「人間はルールに従う動物だ」と言ったが,私は寧ろ「動物は秩序に従う生物だ」と言い換えたい.現在までに蓄積されている進化生物学や動物行動学の知見を借りて考えるならば,社会性を持った動物の多くは互恵的関係を他個体と築きあげ,秩序を形成し,ルールを遵守して生きる.無秩序に生きるような事は考えられない.動物たちに政府という強制力を持った機構は存在しないが,彼らには確固としたルールの存在が認められる(従って,古典的な言い回しである「人は人に対して狼である」という表現は二重の意味で誤りであり,アンフェアな表現である.オオカミはこれまた秩序に従って生きるイヌの祖先にあたるが,彼らのどこが無秩序に生きてると言えるだろうか.まして,人間もそうだろう)

 以上の事を踏まえ,リバタリアニズムの説明に戻ろう.この思想は政府と社会を峻別するのである.政府と社会は決してイコールの関係ではない.暴力の独占主体である政府と,個人がそれぞれ行為して秩序を築き上げていく社会を混同すべきではない.政府の権力によって禁止されるべきは暴力的な危害に限定されるのであって,単なる道徳的嫌悪感までを含むべきではない.リバタリアニズムは社会に任せられる部分は社会に任せ,政府による強制は必要以上求めないのである.

 

 4.多様な生の共存とメタユートピア

 

「そもそも,リバタリアニズムとは異なった価値観を持つ多様な人々の共存のための構想であり,単一の国家目標を人々に押し付ける社会主義とは異なったものである」蔵研也『無政府社会と法の進化 アナルコキャピタリズムの是非』(木鐸社 2007)p.19

 「世界の偉大な頭脳たちが思い描いてきたユートピアは,結局,良識のある人々ならば絶対に住みたくない管理社会であった.その理由は,ある集団の価値観や考え方を他の集団に押し付けるためには,必ず政治的『強制』が付随するからである」西川昌宏『自由すぎると社会の秩序は崩壊する?自由主義者反社会学講座』p.104

 「驚くべき結論は,ユートピアにおいては,一種類の社会が存在し一種類の生が営まれることはないだろう,というものである.ユートピアは,複数のユートピアから,つまり,人々が異なる制度の下で異なる生を送る多様の異なったコミュニティーからなっているだろう.一部の種類のコミュニティーは,ほとんどの人々にとって,他の種類のものよりも魅力的であろう.コミュニティーには盛衰があるだろう.人々はあるものから別のものへ移ったり,一つの中で生を送ったりするだろう.ユートピアは,複数のユートピアの枠であって,そこで人々は自由に随意的に結合して理想的コミュニティーの中で自分自身の善き生のヴィジョンを実現しようとするが,そこでは誰も自分のユートピアのヴィジョンを他人に押し付けることはできない,そういう場所なのである」R.ノージック嶋津格訳)『アナーキー・国家・ユートピア 国家の正当性とその限界』(木鐸社 2010)

 

 

 

無政府社会と法の進化―アナルコキャピタリズムの是非

無政府社会と法の進化―アナルコキャピタリズムの是非

  • 作者:蔵研也
  • 発売日: 2008/01/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 引用した文章は,リバタリアニズムの真骨頂とも言うべきものである.多様な生を共存させる為には,多様な共同体の自由な形成・結合・離脱を個人に認めなければならない.共同体の形は一つでなくても良いし,追求されるべき共通善も多元的に存在して構わない.ある社会においては共産主義的な協同社会が営まれても良いし,軍隊的で権威主義的な社会があっても良いのである.こうしたリバタリアニズムの提案をメタユートピア論と呼ぶ.勿論,ここには但し書きで,あくまでも自発的な合意に基づくことが必要だろうが,この提案は魅力的な事ではないだろうか.

 私は前に売春をたとえに出して,多くの人々は売春に対して道徳的な嫌悪感を感じるだろうと書いた.これをこのメタユートピア論に当てはめて考えてみよう.売春に対して道徳的な嫌悪感を持つ人達は,そうした行為が許されない社会への帰属を望むはずである.逆に,そうした行為は個人の自由な経済活動であると考えたり,特に気にしないような人であれば売春が許容される社会への帰属を望むかもしれない.また,人は考え方が移ろうものなので,後になって帰属したいコミュニティーを変えるかもしれない.こうした棲み分けを繰り返していく事で,我々の社会は多元的な価値と生の共存が可能となる可能性がある.この共存のやり方は,ある人の生き方が気に入らないというだけで,自分の道徳的信念を政府の強制で実現しようとするような管理社会よりも比較的に優れているように考えられるのではないだろうか.後者はとても息苦しい社会になるように思えるし,ある特定の集団が理想とする社会だけが利得を得るゼロサムの構造になっているのに対し,前者は多様な個人の存在事実を正面から受け止め,そうした諸個人のそれぞれの幸福を追求する手段として非常に役に立つものであるようにみえる.

 そして,現実的にも我々はある程度においてメタユートピアを実現しつつあるし,その方が幸福を感じていると言えるのではないだろうか.人は生まれてからすぐに家族という社会の基本単位に帰属し,そこから様々な社会へ帰属していく事となるが,例えば地域のボランティアに関心のある人はそうした団体に帰属したり,野球に関心を持つ人は野球のクラブに帰属したりと,少なくとも任意団体に加入する時の人間は自分にとってのユートピアを求めているのではないか.そうしたユートピアを選択する自由は,やはり個人の生と幸福にとってかけがえのないものであるように考えられるだろう.

 

 5.リバタリアニズム福祉国家批判

 

 リバタリアニズムは現代的リベラリズムが肯定する国家像に対して批判的である.これはよく弱肉強食を肯定していると批判を受ける事が多いが,多くのリバタリアンは弱肉強食を肯定しているわけではない.また,現代の福祉行政に対して批判的であるからと言って,福祉そのものに対して批判をしているわけではない事は強調されて良い.主流派である古典的自由主義者は福祉行政の存在は現代国家と比較すれば控えめながらも肯定するだろうし,先鋭的とされる無政府資本主義者も福祉そのものに対して批判があるのではなく,政府によってなされる福祉が強制力をもって侵害的に実行される事やその実施にあたっての不効率性を問題にしている事が多い.

 森村進編著の『リバタリアニズム読本』(勁草書房 2011)によれば,リバタリアン福祉国家批判は次のようにまとめる事ができるという(ただし,森村がことわっているように,以下の全てを主張するわけではない)

 

 ①「福祉への権利」なるものは他の正当な基本的権利(自由権と財産権)と衝突するので認めることはできない.

 ②福祉国家は人々から労働への機会と意欲を奪うことによって,一層多くの貧困を作り出してしまう.

 ③福祉国家は社会の中に存在するさまざまな団体や共同体や家族による自発的な相互扶助や援助を妨げ,衰退させてしまうし,自分で働き自分で貯蓄するという自助努力を妨げるという点でも社会構造に悪影響を与える.

 ④福祉国家インセンティブや知識の伝達・発見・利用の問題のため,自助や相互扶助や市場よりも非効率であり,社会の進歩を阻害する.

 ⑤福祉国家は政府の権力を強化させ,人々の生活への一層の介入をもたらす.

 ⑥福祉国家は移民の自由と両立しない.

 ⑦福祉国家が目指すとされる「社会正義」の内容は恣意的であり,特定の政治勢力や利権集団に利用されるにすぎない.

 

 以上の指摘を日本の現実に当てはめて考えてみると,現代的な福祉国家を肯定する論者はリバタリアンによる批判を不服に思うかもしれない.

 ②③の指摘に関しては自己責任論に通じる議論であり,評判が良いものではない.しかし,私は例外が発生するのは当然認めるとしても,自己責任を原則にしない社会とは存在できるのか疑問である.自己で責任をとれる範囲において責任を全うさせる事自体は問題がない事のように思える.その上で例外を認める事はリバタリアニズムが必ずしも否定する事ではない.

 私見を更に付け加えるならば,私は⑦に関しては事実であるように思える.現代の年金行政の不効率性や世代間差による不平等性は特定の政治勢力や利権集団に利用された結果としか思えない.私が年金を受け取る歳になる頃,その額は明らかに私よりも上の世代が受け取っていた金額よりも下回る事が予想できるだろう(そもそも,その時まで年金行政は持つだろうか).もし,自己責任を原則に据えて個人積立方式の年金制度にしておけば,今のような不平等で不効率な制度にはなっていなかったのではないだろうか.今のままでは,恐らく個人で相当な蓄えをもっていなければ殆どの人が生活保護を給付しなければならなくなるだろう.その場合,財源的な問題が大きくのしかかる事になる.仮に今の年金制度を維持するにしても,大きくなった負担は次世代へのツケとして重なっていく事になるだろう.

 以上の事から次のことは強調しておきたい.リバタリアニズム福祉国家に対して批判的なのは,それが往々にして恣意的で不公平な状態を形成してしまう点にあるからである.決して,不公平で歪な社会構造を望んでいるわけではなく,あらゆる個人の生を尊重するからこそ福祉国家に警戒的にならざるを得ないのである.*2

 

 .リバタリアニズム各論――動物の自由と肉食の問題について

 

 1.ロスバードの動物の権利批判とその問題点

 

 基礎的な議論は以上で終了である.ここからは,Ⅰ-2で紹介したリバタリアニズムの原則である他者危害禁止原則を応用し,一つのトピックに関して考察していきたい.

 それは動物の自由についてであり,現在のところ,リバタリアニズムの中では等閑視されてきた論点である.従って,注意して頂きたいが,これは決してリバタリアニズムにおいて主流の見解ではない.あくまで私個人による試論である.

 そもそも,リバタリアニズムが今まで論じてきた自由とは,種がホモ・サピエンスに該当する存在について限定して議論されてきたものであり,動物の自由(或いはその権利)に関してはあまり本気で語られてはこなかった.語られるとしても,それは基本的に否定的なものであり,特に現代リバタリアニズムの最先鋭である無政府資本主義者に大きな影響を与えてきたロスバードは,人間と動物の本性上の相違から彼の考える自然法の枠組みから動物を排除している.全てのリバタリアンがそのような議論に同意しているかどうかは別としても,彼の議論をここで紹介した上で,その問題点を指摘してみる事にする.

 ロスバードは次のように言う.

 

 

「(前略)人間が権利を持つのはそれらが自然権だからである.それらは人間本性,すなわち個々人の意識的選択を行う能力,目的や価値を採択し,世界について発見し,生存と繁栄のためにその目的を追求するために,その心とエネルギーを用いる必要性,他の人間とコミュニケートし相互作用し,分業に参加する能力,そしてその必要性に基礎づけられている.要するに,人は理性的かつ社会的な動物である.他のいかなる動物や生き物もこうした推論能力,意識的選択能力,反省のために彼らの環境に変更を加える能力,社会や分業において意識的に協調する能力を持ち合わせていない」M.ロスバード(森村進森村たまき・鳥澤円訳)『自由の倫理学』(勁草書房 2003)p.183-184

 

 

自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系
 

 

 

 この文章でまず疑問となるのは,ロスバードの想定する「人間」が合理主義的過ぎる点である.確かに我々は理性と社会性をもっている人が多いのだろうが,恐らく人とコミュニケートができない人や,意識的選択を行うよりも感情に突き動かされるままに生きる人もいる.煎じ詰めて言えば,彼が動物には無いと断定する「推論能力,意識的選択能力,反省のために彼らの環境に変更を加える能力,社会や分業において意識的に協調する能力」が一つも存在しない人間はいるだろう.重度の認知症・知的障がい者は,何れも無いかもしれない.或いはパーソナリティ人格障害者は社会や分業において意識的に協調する能力が欠けている者もいるだろう.ロスバードはどこまでの能力が認められれば「人間」として認めるのか明言してはいないが,彼の議論を前提にするならば,これらの者を「人間」として見做す必要性はなくなるのではないだろうか.

 

 2.人と動物は絶対的に異なるのか

 

 また,現代の進化生物学や動物行動学が明らかにしてきた事は,人間と動物の差はあくまでも程度の差に過ぎないという点にある.しかも,この差は年々縮まりつつある為,人間独自と見られる能力を見出すハードルが高くなりつつある.動物倫理の研究者であるローリー・グルーエンは人と動物の道具の使用に関する論争について次のようにまとめている.

 

 

「(前略)人間例外主義者の支持者が,人間だけが有する認知技能や能力を示すとみられる行動を指摘し,その行動が動物にもみられることが観察されて誤りであると証明されると,より洗練された能力とその能力の証と思われる行動が指摘されるが,その行動が動物でも観察されるのである.人間独自と見られる他の能力に関するも同じような弁証法をとる」ローリー・グルーエン(河島基弘訳)『動物倫理入門』(大月書店 2015)p.9 

  

 

動物倫理入門

動物倫理入門

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この前提に立った場合,ロスバードの議論を適用すると次のように奇妙な事が起きる.すなわち,ある動物は「推論能力,意識的選択能力,反省のために彼らの環境に変更を加える能力,社会や分業において意識的に協調する能力」をある程度持ちあわせているが,ある特定の人はそれらを持っていない.このような場合,彼はどうすると言うのか.ホモ・サピエンスであるからと後者にしか権利を認めないならば,それは何も根拠がないものだろう.

 ここから取る進路は2つある.一つは「人間」と看做されるべき存在を限定する事により,限定に満たない人については権利の主体者から排除し,あくまでも間接的影響を考慮して同種の殺害を禁止するという議論である.これは「人間」の条件に満たない同種の殺害を許容してしまうと,条件を満たしている存在との区別が困難になってしまうので,一応の保護を条件を満たさない存在に対して法的に与えようとするものだ.

 しかし,この場合,乳児はどうだろうか.乳児は当然ながらロスバードの挙げた「人間」の条件を満たしていない.更に先に挙げた間接的影響を心配する必要性もないだろう.何故ならば,そもそも乳児は障害の有無に関わらず「人間」としての能力をまだ備えていないからである.勿論,ロスバードは乳児については「人間」になる潜在性(彼の言葉を端的に表現するとそうなるだろう)を根拠に,やはり動物とは違うのだと言うかもしれない.だが,これも決して上手くいく反論とは思えない.その理由はそもそも「潜在性」という言葉がどこまでを指しているのか曖昧だからだ.「人間」となる「潜在性」と言った場合,恐らく精子卵子にもその潜在性は認められるだろう.では,自慰や避妊といった行為は殺人として認めるべきだろうか.或いはロスバード自身が正当な行為として認める中絶も胎児の権利に対する侵害行為となり得るのではないか.

 私はロスバードの動物の権利批判は整合性が実際のところは弱く,その論理的帰結も直感や功利性に適合しないように考えられる.そこで,私からは2つめの進路を提案したい.それは,動物を他者危害禁止原則における「他者」の枠内に入れる事である.これはリバタリアニズムの原理の応用であるが,私は「人間」のみを権利の主体者として考えるよりも合理的であるように思える.最後に,リバタリアニズムからビーガニズムについて何が言えるのかを議論しようと思う.

 

 3.肉食は危害か

 

 多くのveganは肉食自体を否定している.veganの肉食否定論に関しては動物に関する議論以外にも地球環境の保全などの意味も含められているが,今回はあくまでも動物に対する直接的影響のみを考えて議論したい.

 私は肉食そのものは危害ではないと考えている.問題なのはあくまでも肉食に付随する動物個体に対する危害であり,またはそれを支持する行為だろう.現代の肉食は,自然死とはかけ離れ,明確に奴隷的な扱いを受けた上に危害を加えられた動物の身体を利用する事から成立している.従って他者危害禁止の原理からこうした態様の肉食やその他の動物利用は肯定することはできない.しかし,例えば何ら危害を受けることなく自然死した存在を食べたり,利用するのは問題とは思えない.人間を仮に肉食したとしても,その人間は既に死んでいるから選好を持ちようがなく,森村進の表現も借りるならば権利の主体者としても終焉を迎えているからである.私は生者のみに権利の主体性を認める森村進の議論に同意する.*3

 また,合意のもとで自分の腕や足を切断して他者に食べさせる事は自然権論や契約論に立つリバタリアンならば殆ど否定しない議論だろう.これはびっくりするほどグロテスクなものだが,他者に対して危害を加えていない以上,リバタリアニズムの原理からは否定され得ないように考えられる.*4

 これに対して,リバタリアニズムの批判者からは「同意があるからと言って人間を食べるという事は許容されないのではないか」と反論が出そうである.例えば,コミュニタリアンマイケル・サンデルは合意に基づく食人についてリバタリアニズムに究極の試練をつきつけると豪語している.彼は合意に基づく食人を幇助殺人と同視しており,明言は避けているものの,リバタリアニズムの原理から食人が肯定される事に関して嫌悪感を煽る書き方をしている.しかしながら,私はそもそもサンデルに対して疑問がある.彼の言い分を分析すると,人肉食自体が問題なのか,それとも幇助殺人に該当するから問題なのか不明である.例えば,死に至らない程度の人肉は許容するのかどうかについて,彼は特に語っていない.推測で議論する事は危ういが,ここから私なりの憶測も交えながらサンデルがあくまで人肉食に対して議論を進めよう.私は次のように考えている.すなわち,人間と動物との間に「合意」に基づかない肉食が発生しているにも関わらず,人間間の食人だけを問題にするのは何故だろうか.倫理的な視点からすれば,合意に達してもいない存在を食い殺す事の方が問題なのではないか.

 

 

 勿論,サンデルはコミュニタリアンであるから,人間ではない存在についてを法的な主体として認める事に難色を示すかもしれない.しかし,それはどのような合理的根拠があるというのか.共同体によって規定された意味に個体は従うべきだとする合理的な根拠とは何か.確かに自然主義的基礎は共同体の秩序を保つ功利的な意味があるかもしれない.しかしながら,現状の規範に対して批判的な推論を行うことすら許さないほど強力な意味があるとは思えない.動物も程度の差はあるとしても快苦や喜怒哀楽の感情を共通して持っている.ある特定の動物たちに関しては人と同程度の精神や理性を備えているかもしれない.その動物達を問答無用に食い殺す事は認めているのにも関わらず,合意に基づく人肉食のみを否定するのだとすれば,それはアドホックで適当な議論だと言わざるを得ない.

 

 とまあ,長々とあまりまとまりのない話になってしまったのだが,リバタリアニズムから動物倫理について応用的に考えるとこんなものではないだろうか.ちなみに,情感がないと言われてる動物――例えば貝のような植物と行動原理がそう変わらないような種――に関しては財産権の客体として良いのではないかと私は考えている.とはいえ,現状はくだらない揚げ足をとられるのが面倒なので動物性は一切利用しないようにしているのだが.

*1:但し,リバタリアニズムは本来的にveganに敵対的とは言い難いことは注記しておかなければならない.例えばノージックは反転可能性から倫理的菜食主義者であったし,現在でも Michael Huemerのようなアナルコキャピタリストがビーガニズムを擁護していたりする.尚、日本におけるリバタリアニズム研究のパイオニア的存在である森村進はD.パーフィットに影響され工場識畜産に反対する意図でペスコ・ベジタリアンである

*2:ただ,私は以前と比べると殊に制度の重要性を認識せざるを得なくなった.福祉国家をどの程度肯定できるのかは不明だとしても,果たして主流のリバタリアニズムが想定するほどに市場が政府と比較して福祉をより良く供給できると言えるのか断定できるほどの自信がない.従って,現状の私の立場は最近勃興しつつある新古典的自由主義であり,比較的に政府による活動を認めざるを得ない

*3:但し,それでも肉食を忌避することはあり得るだろうし,特殊な文化を持ってる人々を除くなら,殆どの人は自分が飼育していた伴侶動物を亡くなったからといって食べないだろう.ここで重要なのはあくまでも肉食が許容される範囲内を論じているのであり,個々の人が実際にそれをするかどうかは問題ではないということを注意していただきたい.

*4:人間的尺度で測定した場合に知能が高いとされる動物に関しては,食べられる事に同意する可能性が万が一にもあるかもしれない.勿論,それは人間でもそうそうあることがないように,限りなく少ない可能性であるが,それでも一切あり得ないというわけでもあるまい.